書名 春のために
著者名 大岡信
初出 1951年ころ
大岡信は朝日新聞に断続的に連載する「折々の歌」(岩波新書に再録)の評者として、つとに有名である。現在、詩歌の目利きとして大岡信は信頼を得ている。このことがあまりにも大きく、大岡信がある時期、日本を代表する詩人の一人であったことは知られていない。
目利き振りは、例えば芥川龍之介の「木がらしや目刺にのこる海のいろ」を選んで「端正な中にも哀愁が漂う」というのはそのとおりである。芥川の知的な愁いが沁みている。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」という室町歌謡(「閑吟集」)に「無常観が反転して虚無的な享楽主義となる。そのふしぎなエネルギー」を見る目は、室町時代をよくとらえている。歴史の中で面白みのある混沌とした時代のバサラな雰囲気を「ただ狂へ」ということばが現している。大岡信はこのように歌の本筋を直ちにつかめる。
大岡信の詩は、ものをつかむ確かさが際立っていた。多彩なイメージを自在に重ねあわせているその表現はものをつかむ確かさによって、成り立っていた。「春のように」では
ぼくらの腕に萌え出る新芽
ぼくらの視野の中心に
しぶきをあげて廻転する金の太陽
ぼくら 湖であり樹木であり
芝生の上の木洩れ日であり、
木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
ぼくら
このようにイメージは増殖する。これは1951年ころ。自分の才能と「おまえ」との愛を深く信じた学生のこみ上げてくる感性の輝き。感性の輝きは「さわる」ということによって保証されている。「春のように」に高らかに歌ったその数年後、「さわる」という詩では、大岡信のものを掴む姿勢が歌われた。
名前にさわる。
名前とものとのばからしい隙間にさわる。
さわることの不安にさわる。
さわることの不安からくる興奮にさわる。
興奮がけっして知覚のたしかさを
保証しない不安にさわる。
さわることはさわることの確かさをたしかめることか。
ものが命名される以前の姿に、自分の感性によって触れたこと、触れて感じたことを頼りに、揺れ動く自分をみつめる。この繰り返しを「だが、さわる。さわることからやり直す。飛躍はない。」とこだわる大岡がやがて目利きの人生を得るのは当然であったかも知れない。目利きの大岡に、社会的な批判のエスプリがないという批判は当らない。「折々の歌」には厳しい社会批判精神を顕にした詩歌をたくさん取り上げている。だが、日本語の歌には瞬間のことばの切れに見るべきものが多く、意味付加に鋭さを持つものが少ないのは致し方ないこと。それは大岡信の責任ではない。
大岡信が取り上げた、
「鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる」加藤楸邨
「斧入れて香に響くや冬木立」与謝蕪村
「春風や鼠のなめる隅田川」小林一茶
「谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな」金子兜太
などのことばの切れ自体に惚れ惚れするのは私だけであろうか。同時にまた思う。ことばの切れを上回る思索の重みは歌えないのだろうかと。あるいは、イメージを喚起することばから、ものが、ものとものとの関わりが変わることも信じられていいはずではないかと。「しぶきをあげて廻転する金の太陽」「木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘」とイメージを膨らました大岡信も知的な愁いをもって、いまは目利きの役回りをこなす。(2004/5/9)

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