
書名 <出雲>という思想
著者名 原武志
初出 2001年10月 講談社学術文庫
出雲というからには古代史だ、とは限らない。江戸後期、平田篤胤から明治期にまで及ぶ、アマテラスとスサノオ・オホクニヌシとをめぐる対立を「顕と幽」というキーワードを用いて論じたものが「<出雲>という思想」である。それを第1部とし、明治初期の氷川神社のあり様を第2部として具体的に展開して見せた意欲的な論文である。私は個人的には幕末に在地の名主クラスに平田学派が広がった理由を知りたいとおもっている。その理解の基礎を得たおもいがする。また、スサノオ・オホクニヌシ・クシイナダを祀る氷川神社が一瞬、伊勢神社と同格と思わせるような扱いを受けた過程も興味深くおもえた。
日本書紀1書第2の解釈をめぐってオホクニヌシが国譲りをしたのち、「吾は退りて幽事を治めむ」という箇所がある。幽事は「かくれたること」。死後の世界である。平田学派は、オホクニヌシの優位性を説いた。「古史伝」には現実は百年に満たないが、幽世は「無窮」である。ここが「本世」である。顕を支配するアマテラスとその子孫天皇のもとに現世を人は生きるが、本世である幽を支配するオホクニヌシの支配は永遠である。この神の支配を受けるのは天皇といえども例外ではないと説いた、と原武志は要約する。このような思想を受け継いだ千家尊福を中心とする「出雲派」は、1881(明治14)年の勅命による「神道大会議」においてアマテラスを担ぐ「伊勢派」に敗北する。記紀の解釈より、政治的な判断が優先された。その後も、平田学派・出雲派の記紀解釈は大本教に受け継がれ、これもまた2度にわたる宗教弾圧にさらされることとなる。「<出雲>という思想」は、このような幕末・明治期の日本的な神々をめぐる対立と弾圧をオホクニヌシ側から論述した力作である。
第2部ではさいたま市(大宮)にある氷川神社と出雲との深いかかわりを論じる。古事記にはアメノホヒの子建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)が出雲国造、无邪志国造などの祖であるとし、また日本書紀ではアメノホヒが出雲臣、武蔵国造、土師連等の遠祖と記述されている。アメノホヒの10代目の兄多毛比命(エタモヒノミコト)がスサノヲを奉じて出雲から武蔵に移住したことが「武蔵国造系図」には描かれている。エタモヒノミコトから物部重臣を経て社家である西角井家(火王子宮の奉斎 角井出雲家)につながる。これについて「そしてなによりも、出雲の神の末裔としての意識が、古代からはるか後の世にまで受け継がれ、明治時代になってもなお、『生き神』信仰が氏子の間に共有されていたことは注目される」と原武志は評価する。幕末に氷川神社のみならず武蔵に出雲系の神々が多いことに言及したのは平田篤胤であった。氷川神社の3社家がいずれも没後門人となっている。
1868(明治元)年天皇が江戸城に入ると10日後には氷川神社に「武蔵国総鎮守」の勅書が出され、その10日後には氷川神社に親祭を行った。このことの重要性を原武志は「天皇が大宮氷川神社を訪れ、アマテラスではなくスサノヲを武蔵国、もっと端的にいえば『帝都』を守護する神として公式に認めたことの思想的意義は、決して小さくない。」と分析する。「このようにして大宮が、新政府が掲げる『祭政一致』の最大の拠点となった。」1870(明治3)年にも再び行幸をおこなう。
だが、1871年になると太政官布告により、伊勢神宮を頂点とする格式では出雲大社と同じ官幣大社に氷川神社は位置付けられ、天皇の勅祭社から脱落していった。同時に世襲の神職制度が廃止され、氷川神社と関係ない公家が大宮司に任命された。1878(明治11)年に巡幸の際に天皇が立ち寄ったことを最後に、氷川神社は衰退し門前町の大宮も衰退していく。これを救ったのが鉄道の駅の設置であり、その後鉄道の町として栄えていく。
そんな折、行政官となっていた千家尊福が第7代埼玉県知事となって1894(明治27)年に赴任する。千家尊福は氷川神社の祈年祭(陰暦2月4日、五穀豊穣を神々に祈る)や新嘗祭(11月23日)には奉幣使として浦和から大宮へ参向した。これを原武志は「もう一人のアメノホヒの子孫である出雲国造が参拝に出向いたわけである。それはかつて、出雲国造が古伝新嘗祭に際して、神魂神社や熊野神社へ参向した光景をほうふつとさせるものであった。」と解き明かす。だが、3年2ヶ月の在任期間後、新たな赴任地である静岡県に転任し、また、大正期以降東京都内に明治神宮、神宮外苑、多摩陵などアマテラスの子孫が帝都守護をする態勢が整えられるにつれ、スサノヲの子孫が帝都守護することは忘れられていった。
このような推移を述べた後に、
原武志は本書を「古代武蔵の政治の中心であり、明治維新により帝都を守護する神々が祀られる『聖地』となったはずの埼玉が、その歴史を顧みられることもなく、出雲の神々のたそがれの里へと変容していったのである。」と文学的に結んだ。 (2004/5/16)
0032