書名 米百表
著者名 山本有三
初出 1943年1、2月号「主婦之友」
米百表は単純な戯曲である。戊辰戦争の折り、河井継之助の「武装中立」路線をとった長岡藩牧野家の方針は、薩長連合に退けられ長岡の町が灰燼に帰するほどの激戦地となってしまった。その後の話である。7万4千石の牧野家は朝敵となり、2万4千石に減ぜられた。河井の武断路線に反対した小林虎之助が大参事となり、長岡の復興に当る(河井継之助を「我が藩の権臣迷錯して、妄りに私意を張り」と批判している)。新潟県西蒲原郡巻町にあった支藩三根山藩から1871(明治3)年に見舞いとして米百表が長岡に贈られてきた。この百表の取扱をめぐる戯曲である。
大参事小林虎三郎は、この百表を困窮した藩士に分配することを行わず、反対を押し切って学校建設にまわすことを決めたことから、激怒した藩士とのやり取りが見せ場となった。
「教育?教育なんてもので、腹がくちくなるか。そんなさきの長い話は、あとまわしにしてもらおう。」と詰め寄る藩士たちに対して、小林虎三郎は、
「(長岡が荒廃した原因)それは何かと申すと、日本人同士、鉄砲の打ち合いをしたことだ。やれ、薩摩の、長州の、長岡のなどと、つまらぬいがみ合いをして、民を塗炭の苦しみにおとし入れたことだ。こんなおろかなことをさせたくないと思って、おれは病中、どれだけ説いたかわからない。-----それでは、どうしてこんなおろかなことをやったのか。つまりは、人がおらなかったからだ。---国がおこるのも、ほろびるのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。だから、人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ずもり返せるに相違ないのだ。おれは固く、そうし信じておる。そういう信念のもとに、学校を立てることを決心したのだ。おれのやり方は、まわりくどいかもしれぬ。すぐには役にたたぬかもしれぬ。しかし、藩を、長岡を、立てなおすには、これより道はないのだ。」と説得する。それでも応じない藩士に、牧野家の家訓とも言える「常在戦場」の掛け軸を示して、家風を以って目先のことのみのこだわりを責める。このようにして長岡から後日、山本五十六連合艦隊司令長官などのすぐれた人物を輩出する本を築いたのが小林虎三郎であると、山本有三は1944(昭和19)年に発表した。
なんでもないようなこの戯曲は、しかし、軍部から反対させ絶版、自主回収を余儀なくされた。それは「米を作れ」「船をつくれ」「飛行機を作れ」という軍部に対して「人をつくれ」それが国を栄えさせる唯一の道であると説くことは危険思想であるとみなされた。みなされただけではなく、山本有三も確かな意図を持って戯曲を書いたのだと、松本健一は小林虎三郎の評伝で述べている(「われに万古のこころあり」新潮社 1992年)。「あえていえば、そういった軍国主義的、全体主義的な時局に抵抗する意図によって、かれは『常在戦場』の真の意味を体現している小林虎三郎のことをとりあげたのだった。」と。
ところで、小林虎三郎とは一体何者であろうか。松本健一の評伝から眺めてみる。吉田松陰とともに佐久間象山門下の「両虎」と呼ばれたという。吉田松陰は寅二郎である。象山も含めてこの三人の人生を決定付けたのは、黒船の来航である。小林虎三郎は師象山の指示によって藩主牧野忠雅(海防月番老中)に下田開港反対の建白書を差し出すが、一書生の身で国政に口出しすることは許されないと長岡に帰藩を命じられ謹慎、やがて悲憤から病を高じさせた。1854(安政元)年のことである。長いブランクを経て、小林虎三郎が表舞台に立つのは戊辰戦争後のことである。のち、師象山も吉田松陰の下田密航事件に連座して松代に長く幽閉されることとなった。吉田松陰は松下村塾を開いた後、安政の大獄によって命を絶たれている。
このような人物の配置の中で幕末の動乱後に、明治政府の学制に先立ち独自に人材育成を掲げた小林虎三郎が目指した教育の中身とは何であったか。その基本となる考えは佐久間象山の「東洋道徳、西洋芸術」であろう。この言葉自体が小林虎三郎の父又衛門宛の手紙に書かれたことばである。長岡の学制は国漢学校と洋学校の二本の柱からなる。学校では従来、中国の古典を漢学で行うのが通常であったのを、国漢学校では国学も行うという画期的なものであった。さらに、士族ばかりではなく、町人、農民にも開かれた学校であった。それは国を富ますために必要なことだ、と小林虎三郎はいう。松本健一の描いた評伝に1874(明治7)年に小林虎三郎がだした『徳国学校論略』(ドイツの学制を略述した書物)の序文冒頭が載っている。すぐれた趣旨である。
「地民を生じ、民聚(あつま)りて一大団を為す。是れを国と謂う。民乃ち国の体なり。故に民強ければ則ち国強く、民弱ければ、則ち国弱し。国の強弱は民の強弱に係る。何をか民の強と謂い、何をか民の弱と謂う。其の能く学を励み業を勉め、勇あって方を知る。」ここにイメージされている国は国家ではない。人々の生活の集まりとしての国であり、市民社会のイメージがある。確かにそれは西欧的な市民社会像ではないかもしれない。西欧的である必要はないのだ。松本健一は、この論理の根底に国家の強さを軍事力や産業の近代化によって測る考えではない、『孟子』の民を第1とし、社稷(国家)これに次ぎ、君を軽しとする考えにつながる発想を見出している。
確かに河井継之助の「武装中立」は、政治の大波の中で反薩長側での戦いに追い込まれていった。それを「権臣迷錯」であるとする小林虎三郎の見解は敗戦となってみれば正しい。そして、強い市民社会をつくることが大切であり、そのためには教育投資だ、という見解に異を唱えることは出来ない。だが、教育だけで済むのであろうか。ありきたりのことばだが、教育も社会の動向や国家の意思と無縁にあるわけではない。過去と現在と未来とは断絶しながら連続しているのだ。現在の貧窮を差し置いて、未来の繁栄のために教育投資を納得させるのに過去からのスローガン「常在戦場」を持ち出したのは「米百表」の小林虎三郎自身である。このように思うとき、同じく戊辰戦争を戦った会津藩のような一種の感情、怨念が感じられないのはなぜであろうか。以前に「ある明治人の記録」で柴五郎を取り上げたことがある。「ある明治人の記録」を読んで感じるような心の泡立ちを小林虎三郎からは受けない。現実への距離感が小林虎三郎には遠いのではないか。そのことが教育と社会(国家)との関係を予定調和的にとらえることにつながっていると思える。地域で人を生かす素地を作ることなく、中央での立身出世を目指せば、やがて地域が枯渇することは明らかだ。明治以降の資本主義化では、地域は「故郷に錦を飾る」場所でしかなくなってしまった。教育水準の一般的な向上のみならず、地域振興と連動した地域教育政策が必須であることは、今日的な課題でもある。
以下余禄である。森鴎外の妹に小金井喜美子がいる。「鴎外の思い出」という単行本を出している。嫁いだ先が解剖学の第一人者となる小金井良精である。小金井良精は小林虎三郎の甥である。戊辰戦争の折には母の手に引かれて長岡から雪の峠を越え、会津に逃れた経験を持つ。医学の大学東校に15歳の良精は入学し、ドイツ語を学び、それによって17歳のときに小林虎三郎が『徳国学校論略』を翻訳する手助けが可能になったのではないか、松本健一は推論する。小金井良精はその後ドイツに留学し、そこで同じく留学中の森鴎外とは周知の仲となる。なお、小金井良精の伝記「祖父・小金井良精」の著者星新一は良精の次女を母とし、星製薬そして星薬科大学の創設者星一(1873・明治6年 福島県出身)を父とする。この小金井良精の伝記に、日本人の由来を知るために清国捕虜の体格測定をした。そのため「明治33年1月14日、市ヶ谷に砲兵中佐柴五郎を訪う。清国の募兵の方法などにつき、種々たずねるところあり」という記録を載せている。まことに縁とは不思議なものである。(2004/5/23)

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