書名 源頼朝の世界
著者名 永井路子
初出 1982年 中公文庫
永井路子は政治が描ける小説家である。もっとも、この「源頼朝の世界」は小説ではない。歴史エッセイである。永井路子は頼朝をこのように表現する。
「いわば風呂から上ったら裸で突立ったままでいるような、まわりがよってたかって体をぬぐい、着物を着せてやらずにはいられないような、そんなものが身についている。」
周りがよってたかって、といっても、じつは核となる人間関係がある。永井路子はそれを「乳母」という。貴族では一人の男に複数の女がいるのは当然。同じ母の元に生まれたきょうだい以外は全て身近なライバルである。その、母も子育てを自分ではしない。乳母という女性が、一人の男をそだてる。いや、乳母は一人ではない。嫡男であれば、可能性を求めて複数の女性が乳母に集まる。乳母を支えるのは乳母となった女性の夫であり、乳母の子供たちである。この乳母の疑似家庭が、信頼できる「家族」である。もちろん、出世の場合には側近としての将来が乳母の家族には保証されていると見ることが出来る。しかし、将来が閉ざされていようとも見捨てる乳母ばかりではない。永井路子は乳母を評して「利害打算を底に据えながら、それを超えた心情的一体感によってつながれているおもしろいところ」という。
頼朝にも複数の乳母がいた。知れたところでは、比企尼である。彼女は頼朝が伊豆の蛭が島に流されると、京都より武蔵の比企に戻り、約20年間にわたって物資・情報を送り届けた。実際に物資を運び身辺の世話を行ったのは、比企尼の娘の婿たちであった。例えば安達藤九郎盛長、比企能員、川越重頼、伊東祐清である。その他の乳母としては八田宗綱の娘(小山政光妻)の寒河尼。或いは、三善康信の叔母。こうした役割を永井路子は要諦として提起している。頼朝の母の実家である尾張の熱田大宮司は積極的な支援を行っていないとも、永井路子はいう。
20年にわたる流刑生活を送る源頼朝の精神力、そして将来展望ももてない中でも頼朝を支え続けえる乳母の疑似家族。これは驚異である。
この流刑が終わるのは京都の大番を終わって東国に帰る三浦義澄と千葉胤頼の来訪である。最先端の京都情報を基にして源氏の決起を促すのであった。「臥所を知らぬ」といわれた千葉氏。「三浦犬は友を食う」と評せられた三浦氏。いずれも鎌倉幕府を築く最強の御家人となった一族である。
このような東国武士団を「もともと職業的な殺し屋」、「暴力団的性格の社会集団」、「武士は常にヤクザそのもの」ととらえる視点もある。そして、明治維新がこの暴力的な志向を日本全体に及ぼし、ようやく太平洋戦争敗北で近代化が始まったとみなす考えもある。「権力におもねり、本当の人権抑圧にはじっと我慢する日本人が、ある場面ではきわめて過度なほどの名誉感情を示す。しかしそれは近代市民社会における個人のプライドとは別種の思考回路から発せられるものである。名誉観念が強烈なのは前近代社会・部族社会の一般的傾向である言われるが、本来武士固有のものだったこのような意識が日本中のあらゆる階層にまで行き渡ってしまったのはなぜであろうか。とりわけ近代以降、日本人は意識の上で総武士化した観がある」(「武家の棟梁の条件」野口実 中公新書)。そうだとしても、敗戦後の近代化がいかなる現実をもたらしたか、厳しい検証が必要である。21世紀になってますます、「近代市民社会における個人のプライド」を持つといわれた欧米の人々とその国家が、「暴力団的性格を持つ社会集団」の色彩を強めているのはなぜであろうか。あるべき「近代市民社会における個人」から始める議論を卒業すべきである。
さて、「源頼朝の世界」に戻ろう。乳母集団は歴史の表には表れないところで大きな流れを作っているというのが永井路子の眼目である。源頼朝しかり。そして、次の世代もしかり。2代将軍頼家は鎌倉の比企館で育てられた。比企能員の妻も頼家の乳母である。また、比企の尼の娘(河越重頼の妻)も乳母、そして梶原景時の妻や平賀義信の妻など有力後家人の一族もこぞって乳母であったという。さらに、寵愛した若狭局は比企能員の娘である。全く比企一族の頼家であった。
これに対して3代将軍実朝の乳母は阿波局、彼女は北条時政の娘で、政子の妹、そして夫は頼朝の弟・全成。北条氏に囲まれた実朝である。比企の乱で、北条氏は比企一族を抹殺し、頼家も伊豆に押し込めた後、暗殺している。北条氏対比企氏は、北条氏の一方的な勝利に終わった。
次の犠牲者は実朝である。鶴岡八幡宮の参拝に訪れた実朝を刺し殺したのは頼家の子供であった公暁。公暁はその足で三浦義村宅に出かけて、そこで討ち取られた。なぜに、三浦宅に走ったのか。それは、三浦義村の妻が公暁の乳母であったためであり、ここに三浦氏対北条氏の長い争いの一コマを見る。これに先立ち、三浦義村の従弟であり侍所の別当を30年間勤めていた和田義盛は北条義時の挑発に乗って、鎌倉市内で大規模な市街戦を演じた後、全滅している。最後に、三浦義村が北条側に付いたのだ。先に「三浦犬は友を食う」といわれた所以である。実朝暗殺時には、北条義時も同時に暗殺する手はずであったが、これが狂ったため、三浦義村は公暁を始末したのではないかと、政治勘のある永井路子は推測する。
三浦義村が亡くなり、また北条義時も亡くなり、世代はその子たちになる。4代将軍九条頼経を担いでの北条氏打倒計画が失敗。直後、追い込まれた三浦一族は頼朝墓所下にある法華堂に篭って宝治合戦(1247年)に及び500余人が自刃して果てた。またこれに連座して討手を受けた千葉秀胤一族も上総一ノ宮の館内に篭って163名が討ち死にしている。これによって北条支配が成立する。鎌倉の近く三浦半島を根拠地とする三浦氏、そして上総を支配する関東の雄、千葉氏も一気に倒され、北条氏にとっても得宗支配を完成させるきっかけとなった。源頼朝によって開かれた日本における軍事政権は、瞬く間にその閨族に乗っ取られたのであった。「いわば風呂から上ったら裸で突立ったままでいる」うちに、閨族が直系の子孫を根絶やしにしてしまったのである。清和源氏の嫡流は一族の「執念」を急速に衰えさせた、と見るべきか。そして生き残るべき執念を持った一族が生き残った。
永井路子はこのように語る。長いが引用してみたい。
「(三浦)大介義明から数えて4代、約70年間の戦いは、ここで終止符をうたれるのだが、史上これほど執念深く対立を続けた例も珍しいのではないだろうか。が、人間の総力を挙げた本当の戦いというものは、こういうものではないだろうか、と私は思う。一度や二度、派手なところを見せて、あっさり諦めてしまうようでは根性がたりないのだ。三浦氏も北条氏も、この間全力をつくして相手を倒すことを狙っている。そういう戦いっぷりを見せる人間を私は好きである。これを浅ましい権力欲と評するのは当らないと思う。」(2004/6/7)

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