書名 周公旦
著者名 酒見賢一
初出 1999年6月 オール読物
周公旦は、孔子が夢に面影を見た人物である。なぜ、堯舜ではなく、周公旦なのか。周の礼を定めたからだという。周公旦は姓を姫、名を旦。後に魯の地を領土として与えられている。したがって、春秋時代の魯に生まれた孔子にとって、統一国家が綻び実力次第の下克上がまかり通っている社会状況を正すのに、周公旦の定めた礼の復活がテーマとなった。だからこその周公旦である。ところで礼とは何であろうか。貝塚茂樹は「論語」(中央公論社)の解説で「孔子は、伝統的な宗教儀礼の必要性を認めながらも、道徳的な社会規範としての礼の学習が重要であることを説いたのである。」としている。宗教儀式とは例えば毎月朔日、廟に犠牲の羊をささげ、月の始めを報告するなどを指す。月の満ち欠けのサイクルを基にした暦は、農業を重んじる社会では重要なことである。
中国の夏殷周と続く3代の歴史で、伯夷、叔斉の諫めを聞かず武力革命で殷を倒したのは周である。周の祖先は后稷(こうしょく:稷はきびのことをいう。当時の黄土地帯では最も栽培に適した穀物といわれた)と呼ばれ、農業の神である。「ただここで重視すべきことは、山や水の神と思われるものを始祖においたのではなく、穀物神を始祖としたことである。このことから、周がかなり早くから農業をもっとも重視した現われであり、私は、ほんとうの意味で土地を支配し、その土地の生産物である穀物を支配しようとしたのは、周が最初であったと考えている。周はのちに殷を倒すと、封建制度を実施して、東方を支配したが、その目的こそまさにここにあった。」(「古代中国」講談社学術文庫 貝塚茂樹、伊藤道治)。
酒見賢一は周公旦をどのように描いたであろうか。周公旦は周の文王(殷の時代には西岐の一諸侯であった周を盛んにし西伯とまで呼ばれるようになった実力者)の4男、殷を攻め倒した武王発の弟である。紀元前1050年ころの話である。周公旦の話は武力革命前後の太公望呂尚との確執、そして後半は追われて楚の国へ亡命した理由を解き明かすことを柱としている。宮城谷昌光の「太公望」ではほとんど影のような周公旦。でも酒見賢一では負けることを知らない軍事的天才の太公望に対して、内政を司りさらに予知能力をも身につけた(卜占を得意とする)シャーマンとして描かれている。文章の力も呪術である。殷を滅ばした牧野の戦いで「牧誓」を告げた。この文章は周公旦が書いた。
「ねがわくは猛々しきこと虎のごとく、羆のごとく、豺のごとく、離のごとく、牧野において戦え」「つとめよや勇士。爾らもしはげまざれば爾らの身に戮あらん」
武力革命を成し遂げた武王発は、しかし武王の13年目にして崩御した。幼い武王の嫡子成王に代わり周の全ての権力をえる。「史記」(小竹文夫、武夫訳)にはこのように記述されている。「成王は年が若く、また周が天下を定めたばかりの時なので、周公は諸侯のそむくのを恐れ、自ら政を摂行して国事に当った。管叔や蔡叔などの群弟は周公を疑い、武庚と乱を起こして周にそむいた。」天下を狙う斉王(太公望呂尚)に操られた(と、酒見賢一は描く)この禄父三監の乱を防ぎ、国家の礎を定めた。そして成王7年、摂政を退いた。話はそれるが、推古天皇の摂政を聖徳太子とする日本の歴史は、この周公旦が摂政となったことの真似である。国風文化が起る以前には中国の真似と思わせるものが多い。こうして、摂政を退いてみると若年の成王を取り巻く側近にとっては周公旦を葬るよい機会が訪れたことでもあった。成王から、問責状が届く。周公旦が私利をはかり汚職し、周公を僭称して成王を侮辱し、領地の呂に引退しないことを責めた。この問責状を受けた周公旦の行動は驚かすものであった。「史記」には「祈祷の策書を王の書府におさめた。成王の病気が快癒し、国政をとるようになってから、周公を讒言するものがいた。周公は楚に出奔した。成王は書府を開いて、周公の祈祷書を見つけ、感泣して周公を呼びかえした。」
酒見賢一の謎解きが始まる。周公旦は自害もせず、また中華の国々に亡命する道も選ばず、国情も知らない「荊蛮の楚」に走ったのである。どうしてこの選択を行ったのか、それが小説で描こうとしたことである。結論は、未開でばらばらであった楚に統一国家を樹立させ、そのうえで周の属国とする工作の旅にでたのだという。では、周公旦はどのような工作によって実現しようとしたのか。それは部族を超える礼による統一である。「周公よ、おぬしの礼の術、しかと見せてもらった。祖霊をあのようにあらわし出すこと、荊楚の巫師にもなかなか出来ることではない。いちおう恐れいった。」と於兎と呼ばれる楚の部族長にいわせる。この招魂霊媒の場面が、小説の見せ場である。「周公旦は地下へ沈潜していった。」「既に周公旦は地の神に挨拶して、於兎の祖霊を捜しだしていて、招き寄せている。がくりと上半身を落とした。しばらくして上半身をゆっくりと起こした時には神懸っていた。『虎契』と周公旦の口から野太い声が発せられた。見物人がざわざわとなった。虎契とは、於兎の首長の本名であり、周公旦は知らないはずであった。」
どのような呪術を使ったのかと聞く楚の別の部族長・熊繹に対して周公旦は「こちらが礼を履めば、むこうも履まざるを得ません。友好の使者であれ、戦さの使者であれ、礼としてそうなる。これがわたしのいう礼の力というものです。」とこたえる。礼は人と人との交わりのあり方以上に、鬼神と交感できる形式でもある。
その後、許されて周に戻った周公旦は豊邑において官制を記した「周官」、礼制をまとめた「周礼」の記述に没頭して卒した。遺言では屍を成周(洛邑)に葬ることであったが、成王は文王の墳墓のある畢(咸陽市の北)の地に葬らせた。側にいられることを嫌ったのであろう。この後、成周の実権は周公旦の一族から召公の子孫へと移っていった。(2004/6/13)

0036