書名 瀬戸内の民俗誌
著者名 沖浦和光
初出 1998年 岩波新書
沖浦和光といえば、雑誌「季刊クライシス」に載った「人類史において<近代>とはなんであったか」という論文である。それは1979年のことであった。この論文は「近代の崩壊と人類の未来」(日本評論社 1980)に再録されている。この大げさな表題に見られるような大雑把な論文ではあったが、(あったこそ)日本的な近代のあり方を問題意識として考えようとしていた当時、心に響く文章であった。それはこのような箇所である。
「ギリシャ・ローマに端を発する西洋文化の流れを世界史の唯一の準拠体系とみなし、その基盤の単線的な発展史観がいかに誤っているか」「特定の種の生物が、種の同一性を保持したままで、こんな短期間に急速に変化した実例は見当たらない。ヒト以外にはないのだ。あるとすれば、ヒトが飼育しだした家畜だけである。この家畜だけが急速に形質変化をきたすという事実は、われわれに、多くの示唆を与えるのである。すなわち、何人かの生物学者が指摘しているように、短期間で急速に変化したヒトの形態特徴は、じつはヒトの“自己家畜化”の結果である」「人類の普遍的理念を目指す歴史主義であったが、他の諸地域の民族を収奪と搾取と侵略の対象としてしか考えないところに、真の普遍性が実現されるべくもなかった。せいぜい西欧中心史観内でのエセ普遍性にすぎなかったのである。単線的な文化発展史観としての、西欧の自民族中心主義は、人種的偏見と植民地侵略衝動を背景にもっていた。その思想は、社会ダーウィニズムと結びついて、適者生存の名のもとに、<強者の権利>を正当化した。」「今日、若者の価値観は多様化したとよくいわれるが、それはウソだ。主体的な精神の志向性を十分に発揮する場、すなわち、それぞれの多様な個体性の自己発揮を保障する社会的基盤もないところで,本当の意味で価値観が多様化することなどありえないのだ。」
歯切れのいい断言が続くのが、年若い読者にとって魅力であった。どうであろうか。20年たっても基本的な命題はそのままだと思う。政治的にはアメリカ合衆国の国益に沿った日本の人々の自己家畜化は進行している。この政治過程を「多様化した」当時の若者が今日まで、担ってきたのだ。
1927年生まれの沖浦和光は,このような大上段に立ったことばをもはや使わない。地道な実証研究で「瀬戸内の民俗誌」を著す。瀬戸内の海の民のあり方を自分の出自への問題意識と重ねることで、コンセプトのはっきりした読物をつくった。農本主義の日本にあって海の民、山の民の扱われ方。平家の落人伝説や中国・朝鮮渡来の伝承あり方。そして今日まで続く栄枯盛衰の有様。全てがやさしいセピア色に塗られた沖浦和光の頭脳の、夢語りに費やされている。胸かきむしられるようなその時代その時々の痛みや悩みが「民俗誌」の枠内に収められていると言っては酷であろうか。
美しいことばは続く。それはかつて「今日の若者」と言われた世代の私はまた別の感動をもって自己家畜化されない人々の声を聞く。でもそれは450年前の話ではないか。
「この明円寺(広島県 鞆ノ浦にある浄土真宗のお寺)の長存が水軍として出陣した時(1576年、織田信長に石山本願寺が囲まれ、毛利の配下に入った村上水軍が織田方の水軍を打ち破った折に導きをした)、あの有名な『進者往生極楽、退者尤間(むげん)地獄』という旗指物が掲げられた。この有名な旗は、今でも竹原の長善寺に保存されている。沖浦を名乗る家系が、この円明寺の門徒総代をやっていた。おそらく石山合戦の際にも、わが祖先たちは法泉坊長存のそばにいて、この船団の一方の旗頭になっていたのではないか。」
改めて思う。450年は一瞬であるかも知れない。織田信長と石山本願寺の攻防戦を昨日の出来事のように語る歴史への実感は大切だ。ローカルエリアでの連続した心の重なりは人を人としてあらしめる。でも、今も肝要なのだ。沖浦和光には「人類史において<近代>とはなんであったか」をもっと直接的に問い続けて欲しかった。今の状況で『進者往生極楽、退者尤間(むげん)地獄』の旗指物を掲げてなにをするのだろうか、と。「それぞれの多様な個体性の自己発揮を保障する社会的基盤」をつくる「進者」の道はどこにあるのか、と。持続する意思がなければ、わずか20年前でさえセピア色に塗られてしまう。(2004/6/19)

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