書名 黄河の水
著者名 烏山喜一
初出 1943年 刀江書院
 烏山喜一が「黄河の水」を書いたのは戦争中。戦後には改訂して、やがて1951年には文庫本化された。少年少女のために中国の「その底にひそむ知れざる力にも比すべき漢民族が内に包む力」を黄河の水と言う題名に込めたという。これを最初に読んだのは、高校時代に、夏休みの課題で、であった。通史の中身にこめた烏山喜一の気持ちを読み取ることは高校生の私にはできなかった。
 中国侵略への反省を「しかし漢民族――中華の民は、決して武力を重く考えたものではなく、いつも武事は文事よりも、武官は文官よりも、低く軽く見るという慣わしとなっていました。武力軍事を軽く見るから、外民族に攻められて一時の敗北をしても、またその支配を受けるようになっても、よくそれをこらえて自分の本質を失ってしまうことなく、それでもその文化を守りつづけもするし、かえって侵入者を同化することもあり、やがてはそれを武力的におい出して、中国人の中国を取り戻すだけの弾力というか、底力というか、そういう力をもっているのです。」と結びで述べている。この烏山喜一の視点は今もって大切だと思う。
黄河断流 黄河流域が中国の文化発生の中心地といわれてきた。李白が「君不見黄河之水天上來 奔流至海不復廻」(奬進酒)と歌ったことはよく知られている。黄河の水は天上から来るというのだ。しかし、その黄河も1970年代から海まで流れ込まない時期が増えてきている。李白が生きていたらどのように嘆くであろうか。「1970年代以降、 黄河下流域に断流が発生し始めたから、断流時間が年々長くなっている。1972-1998年の27年間の内、21回も断流が発生し、平均で五年の内四年も断流が発生した。 90年代になると、断流の状況は更に酷く、ほぼ毎年に発生した。しかも、断流の長さは年々増加した。1995年の断流日数は122日、1996年には136日、長さは683kmであった。 1997年には、 山東省利津水文Stationで一年に13回の断流が発生し、合計226日の断流日数を記録した。また、長さは河口から開封市附近までの704kmに達し、 黄河下流域河道の長さの90%を占めた。1998年には初めて越年して断流が発生した。その年は、黄河の主流のみならず、黄河中流域の各主要の支流(沁河、伊河、汾河、大?河、延河、渭河等)でも断流した。」(「黄河断流の原因と対策」 大坪 国順・王 勤学 1999年)という。永遠なものとしての黄河も廃れる時があるのだ。或いはこのままでは、廃れる時を待つのみだといってもよい。
 黄河の流れが途絶えるからというわけではないが、中国の歴史を黄河流域、或いは「漢民族」という民族にくくって論述する歴史の必然性も再検討してもいいのではないか。「黄河の水」に書いてあるように黄河流域には苗族と呼ばれた人々が住んでいたと思われる(その苗族が今中国で苗と呼ばれている人たちと同じかどうかは別だが)。しかも、華南に移って米栽培を行う苗族が、なえそのものを氏族名とし、また、米栽培を日本へもたらした源流であるかもしれない。このように人々の歩きは一筋ではない。日本で使う苗字という苗はこのなえの伝播してきた歴史と無関係ではないだろう。このように考える時、日本、或いは日本人を純粋民族として考える考え方と同じ発想が、黄河流域唯一、或いは漢民族唯一が中国と同一であるという発想にもあると思われてならない。
 例えば外族(異民族)の呼称について「よみがえる文字と呪術の帝国」(平勢隆郎 中公新書 ただし勢いという字の左上は生)に面白い分析がある。殷の甲骨文には外族は羌しか記されていない。外は某方といわれる「方」すなわち諸侯である。周初に殷を「衣」と呼び、これが後に「夷」に相当する。春秋時代の斉を中心として編まれた「公羊伝」では楚、秦、呉は夷であり晋は夷に染まった国と表現され、「穀梁伝」は鮮虞という外族の末裔が立てた中山がかかわる。ここでは姫姓白である鮮虞を中国と呼び、楚呉晋秦をといい、斉を夷の俗になじんだと考えている。このように固定的なものではないことが説かれている。
 中国には行く筋もの川が流れている。黄河だけではない。そのいく筋の河のように、行く筋もの歴史があるのではないか。中国文化圏の一つとして文字を漢字表現に選んだ日本という地域、人々が反省する仕方、未来を展望する発想も、必ずしも「黄河の水」一筋ではなくてもよい。そして、奈良・京都あるいは江戸・東京に過去、未来を収斂しなくてもよい。(2004/7/4)

楽書快評
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