書名 画文集 <私の>地球
著者名 香月泰男
初出 1998415
 香月泰男は黒の画家である。それは生き難さの表現であるとともに、黒の中から不思議に生きることへの強い希求を感じることができる。なぜに香月泰男は黒の色彩のなかに生への希求を表そうとしたのであろうか。生き難さを突き抜けた上にある例えば「青の太陽」での青の救い。香月泰男にとって生への希求とはそもそもいかなるものであるのか。画文集「<私の>地球」ほど、これによく答えてくれているものはない。
 香月泰男の名前をはじめて知ったのは、シベリア体験を持つ石原吉郎の詩を読んでいたころのことだ。第2次世界大戦の敗北後、ソビエトロシア軍に囚われ、シベリアに抑留された体験を持つ香月泰男のシベリアシリーズの黒の色彩は圧倒的であった。生き難さがキャンパスを覆っていた。この黒はシベリアでの体験を抜きにしては現われてはこなかったと思う。が、香月泰男が感じる生き難さは「<私の>地球」を見る限り、もっと以前から形作られたものであることが分かる。この画文集は、そのようなストーリーで作られている。
 予めストーリーに沿った結論を言っておこう。香月泰男の表現した世界は、父母のいない環境で育ったがための生き難さの実感と、新たな家族と郷土との身近なかかわりにこだわり、そこに生きることへの希求である。香月泰男は、かづきやすおと読む。1911年(明治44年)山口県大津郡三隅村久原(現、三隅町)に生まれた。家は代々広島で漢方医を生業としていたという。4代前から萩近くの三隅町に定住し、泰男の父も「医者になるべく歯科医専に学んだが、放蕩息子で道楽に身をもちくずし、朝鮮に流れていってその地で死んだ。私がまだ小学校4年生の時である。母はそんな父に愛想をつかし、私がまだ幼いころに離別していた。------私を育ててくれたのは祖父母と、父に代わって医業をついだ叔父である。別に、いじめられながら育ったというわけではない。しかし、父のなく、母もなく兄弟もなく育たなければならなかった私は、いつも孤独だった。オレは誰にも必要な存在じゃないんだ。いなくたって誰もどうとも思いやしない。死んでやろうかな。そんなことまで考える時があった。」これほどくっきりと居場所のなさを示す言葉はない。自分の存在の空虚さを香月泰男は訴えている。この空虚さを埋めたのは絵かきになる決心であった。東京美術学校を卒業すると、北海道の美術教諭を1年経験した。故郷への思いがつのり、山口県立高等学校に美術教諭の口を得て、結婚もし、そして絵かきへの道を歩み出す。家族も増え、ようやく実生活も含めて居場所ができ始めた折り、32歳の香月泰男にさえ召集令状が来る時代に入った。晩年二期三隅村長を務めた祖父が亡くなって1年後、19434月下関から満州へと配属される。
 敗戦、そして1年半にわたるシベリア抑留。この間、肌身離さず持っていたものは、絵を描くことを決めた時に母から贈られた絵の具箱であった。別の世に旅立つ3年前、香月泰男は59歳になってこのように書く。「私が油絵具を手に入れることができたのは、中学4年の時である。それを手に入れるあらゆる手段を考えたあげくついに一大決心をして、母の再婚先に手紙を書いたのである。-----それは母に書いたはじめての手紙だった。」切ないではないか。もちろん香月の家が油絵具を買えないほど貧しい訳ではない。津和野にいた母への手紙。油絵具の無心、それは母の愛を確かめる一大決心であったのだろう。収容所に入れられ火力発電の薪作りの毎日、戦友は次々と死んでいく。1972年に描いた「絵の具箱」にはシベリアで想いまとまったモチーフが12の文字に書き付けられていた。「葬、鋸、朝、陽」などの言葉を裏ブタに書き記していた。シベリア帰りとして家族のもとに帰郷した香月泰男によって1960年「涅槃」、1965年「朝陽」、1967年「別」、1969年「青の太陽」など見る者を惹きつけて離さない黒のシベリアシリーズが描き続けられた。シベリアから持ち帰ったモチーフで描いた絵画、その数57点にも及ぶ。
 のち香月泰男は61歳になって語る。「戦地で死んだ戦友たちも、案外、私のようなことを考えていたのかも知れぬ。何に変身して家族のもとへ帰ろうか、と-------。ひとり、ひとりがそれぞれに変身を考えたであろう。私の思考は、いつも結局はシベリアになってしまう。」
 香月泰男の家族への思いは尋常ではない。妻・香月婦美子は「夫・香月泰男の思い出」で描く。「主人は、はやくに両親と別れ兄弟もなく、淋しい思いをして育ちましたので、家族をとても大切にしてくれました。けれど、家族が家を離れることを極端に嫌いました。-----ともかく私が出かけることを嫌がっていろいろと申しますが、私が家中のどこかにいれば安心して制作に集中できるようでした。」「主人の仕事がはかどることは、私の喜びでもありまして、私は自分ひとりの楽しみを味わうことよりも、主人が仕事がはかどってふたりで喜びを味わうことで、結婚してからの37年間生きてまいりました。」
 この間、香月泰男はスケッチ旅行に行く以外は故郷・三隅町から離れる事はなかった。香月泰男は55歳の時に次のように述べる。「気ままな日々を、いまの私は送迎している。それにしては制作のほとんどのモチーフを追憶の中と、家から23分の距離より望見されるものにしか求めていない。それでじゅうぶんではないかと思いもするが、時には息もつまる。だから一杯傾け白昼夢を楽しむことになる。いまも捕虜時の、さくの中を歩くくせがのこっているのか、いやそれ以前からもそうであった。」香月泰男は家族、故郷という柵を設けてその中に安心を求めた。家族や故郷の自然の息づかい、手触りの中に居場所を設けようとした。日本国家は、この安心の地から暴力的に引き剥がすもの以外のものではない。家族もこの柵を越えて離れることを香月泰男は嫌った。柵を超えて離れた父母を想わずにはいられなかったからだ。香月泰男は柵の中から叫び続ける。再び柵の中の居場所を、安心を壊すなと。家族や故郷とともに生きることは香月泰男の希求である。だが、その柵の中でさえも息苦しい。希求が強ければ強いほど、不安も募る。不安が強ければ強いほど、希求も激しい。不安は去らない。そして、不安は現実となる。「197111月、長女の慶子が32歳で死去する。その前後から、ワインの飲みすぎがたたり心臓発作に悩まされていたが、娘の死により、酒量が一層ふえていった。197438日、心筋梗塞のため自宅で死去、享年62歳。」
 婦美子の思い出は酒びたりの晩年を描く。「晩年は、午前中の仕事を終えて、昼ごはんにはもうワインを飲んでいました。-------その後、体のことを考えて、ワインをビールに変えました。玄関とアトリエの間に台所がありますので関所のように、台所を通るたびに冷蔵庫からビールを出して飲んでいました。」画家は長命だといわれる。それは花鳥風月の世界に遊ぶ場合であろう。柵の内側まで黒が押し寄せてくる。耐えられなくなると、「一杯傾け白昼夢を楽しむ」毎日では長生きはできないであろう。
 もう、香月泰男が亡くなって30年が経ってしまっている。
 香月泰男の柵の中の安心は、西洋の個性と個性とが発揮しあって成り立たせる社会のあり方とはだいぶ違う。1970年、香月泰男は自分の画業についてこのようにまとめる。「芸術とは自分を発見していく過程であると思う。私が洋画を志ながら東洋画に傾倒して言ったのも、東洋人である自分の発見。日本人である自分の発見のゆえんだろうと思う。」東洋といい、日本という。それは香月泰男を柵から連れ出したナショナリズムという近代性とは違う。「鳥や虫や魚は、太古とさほど生活様式は変わっていないはずだが、結構現代の人間の生活の中にそのままの姿で生きている。--------われわれの芸術(?)だって、そんなものかもわからんなと思うことがある。ずいぶん新しぶって仕事があるがちょっと身ぶりが変わっているだけで、太古とさほど変わっていない。地球上どこへいってもおなじではないか、ということをこの目と肌で確かめようというのかも知れない。」
 香月泰男の黒、カシやナラからつくる木炭は太古の暗闇に繋がっているのだろうか。(2004712)
楽書快評
トップページに戻る
0040