書名 落日の宴
著者名 吉村昭
初出 1994年1月号〜1995年10月号 群像
川路聖謨はいつも道中を急いでいる。ロシアからの使節・プチャーチンと会うために長崎に急ぐ川路聖謨のもとにさらに急がせる使いが来る。「(長崎)奉行は、『御差急ぎ御着崎御座候様-------』と、至急、長崎に来て欲しいと懇請していた。川路は、おろかしいことを申す露使め、そのようなおどしには乗らぬ、と思いはしたが、奉行の窮状も察せられ,さらに道を急ぐことにした。」
長崎の勤めを終わって、江戸に帰る道にはまた、急ぎの知らせが入る。江戸湾にアメリカ艦隊が入り込んできたというのだ。「わずかな睡眠をとっただけで、八ツ(午後2時)すぎには出立し、草津、石部をへて水口で昼食をとり、その日は15里歩いて坂の下で投宿した。------平均十数里の歩行で、随員や家臣の顔には疲労の色が濃く、旅案内の道中師は、このような旅は絶えて聞いたことがないと、呆れていた。」
そしてまた、下田へ急ぐ川路聖謨。「家臣とともに寺の玄関に立った川路の姿に、奉行の都筑は、驚きの目をみはった。前日の夜、三島宿に川路一行が止宿したことを知った都筑は、急用状を出したが、どれほど急いでも下田到着は、その日の夕刻になる、と予想していた。彼は、川路が目の前に立っているのが信じられないらしく、眼に涙をうかべていた。」
急ぐのは目的地に任務が待ち受けているからだ。それは公務に誠実な高級官僚・川路聖謨の姿をよく示す道中姿である。「かれは、幕史として常に倹約に心がけ、生活はきわめて質素であった。日常の寝具、衣服は綿のものを使用し、食事は一汁一菜であった。酒は大いに好んだが、旅行中は禁酒するのが常で、長崎への旅もそれを自らに課し、家来たちにも厳守させていた。」
隙を見せずに官僚組織をのし上がっていく能史のタフさを川路聖謨は当然持っていた。
あとがきに吉村昭は「私が川路に魅せられたのは、幕末の功労者であるとともに、豊かな人間性である。」その事例として質素な生活、公務の旅行での禁酒、接待の忌諱、贈物への受領拒否、激務を耐えるための体力維持などをあげている。これが吉村の言う人間性である。
これでは奇麗事すぎないか。吉村昭の描く川路聖謨は凄みや面白みが感じられない。徳川政権の落日だからこそ登用された川路聖謨の複雑な心のあり方が伝わってこない。
既存の組織を使っての改革、特に日本的な風土では有効な手段だと思う。そこを掘り下げるのも、川路聖謨へのアプローチとしては重要な要素になる。だが、描いたのはのし上がってきた能史の多忙さと、にもかかわらず時代の歯車は別の方向に向かっていく無念さである。それはそれで、描き甲斐のあるテーマであるとは思うが。
「視力はおとろえ耳は遠く、絶えず涎をたらしていて、どれでも生きつづけてきたのは、いつか再起して将軍家に御奉公しようと思っていたからだが、将軍家は今では無きに等しい存在となっている。---------川路は、江戸城が討幕軍の手に落ちるのを悲しんで自殺したが、討幕軍が江戸城内に入ったのは、それから1ヶ月近くたった4月11日であった。」
道を急ぎすぎたというのか。(2004/7/26)

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