書名 鏡川
著者名 安岡章太郎
初出 1998年 7月 新潮社
高知市を流れる鏡川は名前の通り鏡のように穏やかである。「高知の母の実家の前を流れる鏡川を思い出す。高知市の南を西から東へ流れるその川は、高知城の外堀といった役割を果たしており、川の左岸の土堤の一部は築屋敷と称して、藩政期の中頃から、武士と町人の住居が混在して軒を並べ、現在にいたっている
という。」
安岡章太郎の母方の祖父・入交千別(いりまじり・ちわき)は久万郷士出身で、義弟片岡直温(昭和恐慌時の大蔵大臣)を頼って日本生命に入り、後47歳から鏡川畔で30年余りの余生を暮らす。三女桓が山北郷士出身の安岡章と結婚してもうけたのが安岡章太郎である。久万の母方の人びと、とりわけ西山麓に親しみを込めて描いた小説が「鏡川」である。
小説の前半は幕末、明治初期の尊皇攘夷、自由民権運動のすさまじい流れのなかに身を置いた郷士たちの姿を描いている。例えば、吉村三助の娘まきは武市半平太の従兄弟、島村衛吉に嫁いだ。吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の党首である半平太の罪状を吐かせるために島村衛吉への拷問が行われた。「まきは、夫衛吉が拷問に屈して東洋暗殺の膨大な背後関係を明らかになることを惧れて、獄内の衛吉のもとに毒薬天祥丸を送りつけて安楽死をさせたと伝えられる。まきは、その後、五藤氏に嫁したが終生佯狂を装って、その意志をつらぬいたといわれている。」
このような激しさは自由民権運動にも引き継がれた。安岡章太郎は第2回総選挙の様子を描く。高岡郡須崎町では弁士が壮士数十人に演壇から引き摺り下ろされて刺され、1時間後の死亡。高岡郡斗南野では吏党60名が抜刀して民党の集会に乱入。また「香美郡山北村の私の生家は、まわりを国民派に囲まれたなかの只1軒の自由派だったので、自家製の大砲(木砲)を据え、また門前に地雷火を埋めるなど、その防備はまさに内乱であったといえる。」と表現している。このような土佐の激しさは、四万十川河口近くの中村町に生まれた幸徳秋水の大逆事件による虐殺にまでつながる。
まきの兄が吉村三太(丸岡莞爾)である。彼は土佐藩を脱藩後、岩崎弥太郎のもとで働き、やがて紆余曲折を経て41歳になって宮内庁の職を得る。その後は沖縄県知事、高知県知事を務める。莞爾の息子が桂、桂の息子が作家の丸岡明である。まきには姉千賀がいて久万郷士の西村禎吉に嫁す。二人の間には安政6年(1859年)西山麓が生まれる。禎吉は麓が12歳の時になくなり、以後、千賀、麓親子は丸岡莞爾が死ぬまで、彼のやっかいになる。功成り遂げた丸山莞爾が高知の久万山に葬られると千賀、麓親子はもはや頼るものが無くなってしまった。鏡川の北側、土堤下の南奉公人町の薄暗い家で次ぎに千賀が亡くなり麓は一人となった。明治も末年になっていた。
西村麓は何者か。「少年時代から暇さえあればところかまわず何処でもゴロリと寝ころんで」「おそらく麓という人は、子供の頃から40,50の年になっても、世間知らずの幼児性を保ちつづけた人」。母千賀が亡くなってから家に入れた女には電球と入れ歯を持ち逃げされ、こうして葬式の旗持ちをして生活をするようになる。同時に、彼は小鷹西村麓という漢詩人でもあった。
安岡章太郎は西村麓が書いた自由民権激派「大島更造の墓を弔ふ」という漢詩を解釈して「何としても母の死後、あの思案橋の女に逃げられて、自分の家を維持する根気も意志力も失われ、何となく人手に渡して、茫然と秋の鏡川原で日射しを浴びながら立ち尽くしている小鷹の姿が目に浮かぶ。」と語っている。昭和3年(1928年)養老院で病死、70歳になっていた。
小鷹西村麓の病中二首は彼の生涯を見事に映し出している。そのうちのひとつ、安岡章太郎が書き下したものを載せる。
風塵に落ちぶれてはや幾年
狂名(おかしなうわさ)ばかり妙に世間を囃し立て
一生かかっても知己はない
半世の文章、ついに銭には成り申さず
笑って青衫(せいさん;書生服)を質に入れ、花見酒を一杯又一杯
酔って紅袖連れで、月見船と洒落たはいいが
如今嚢中(いまのうちゅう)素カラカン、水より冷たい財布
壁の破れ目に残り火チラチラ、雨に軒端で子守歌
安岡章太郎は「詩人としての感興絶頂に達したときの作であろう」と述べている。それはまた激しい土佐の人びとの姿のひとつである。ある者は夫を安楽死させ、ある者は壇上に倒れ、ある者は栄達をえ、ある者は貧苦のなかに一生を終わり、そしてある者は無為を歌って死んでいく。
入交桓の母竹は結核に冒され鏡川の傍の家で伏すようになる。父千別は結核をおそれ病床に近寄らなくなった。「千別はとくに竹が喀痰を吐き散らしはせぬかと、それを蛇蝎の如くに忌み嫌った。しかし、そうなると桓は、意地になったように、竹のまわりでその痰を取る世話を見た。桓は勿論結核に対する警戒心はあった。とくに喀痰はキッチリ蓋のできる孟宗竹の容器に取り、毎朝それを棄てに行くのを、桓は自分の日課にして、他の誰にも任せなかった。家の南側は、鏡川の河原で、そこは眼の下一面に桑畑である。そこを桓は朝早く、竹の容器に入れた喀痰をまるで大切なもののように両手で持ち、たぶん2丁ほども歩く。と、畑のはずれに木槿の木が白い花を咲かせているのが1本立っている。そこから先は、もう綺麗な水の流れる川面である。鏡川は、坂本龍馬が雨の降る日も水浴びしていたと伝えられ、桓自身もそこで子供の頃に水泳を習った覚えがある。だから間違っても、その川に容器の中身を流すわけには行かない。木槿の根方に深く穴を掘り、容器にあけると丁寧に埋めて、地均しした上で、家に帰る。」55歳で竹が亡くなり50日祭が済むと、千別は再婚をすると言い出した。桓は「父千別の『わたしは再婚する』という言葉を聞いた瞬間、木槿の花の咲いていた木と鏡川の流れを思い出し、猛烈な反感の念が湧き上がった。」
仲の良くない後妻から離れて桓は東京青山の漬物屋の2階で安岡章の結婚生活を始めるのであった。桓もまたきびしい性情をもっていた。
2004年夏。鏡川の川岸の宿に泊まった朝、穏やかな川面には蜆取りの姿も驚きであった。激しくきびしい土佐の人びとの感情を受け止めて、今日でもゆったりと鏡川は流れていた。 鏡川のようなきれいな川が大都市に流れているのは不思議である。高知の人々が郷土を思う気持ちがここに現われていると思う。
(2004/8/9)

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