書名 土佐日記
著者名 紀貫之
初出 承平4年(934年)12月21日〜承平4年(935年)2月16日
 土佐日記は挽歌である。子を亡くした老夫婦の嘆きの歌日記である。女性に身を代えた作者が亡くなった娘を任地に残して戻る旅路でのこころを痛切に描いたひらがな文である。
 紀貫之は没落した名門紀氏に属し武内宿禰から18代目に当たるという。歌人としては名前が高く「古今集」の選者であっても、貴族社会では身分は低い。70歳近くになってようやく国司になれた。土佐守の4年の任期を終えて帰京する旅を綴ったのが土佐日記である。
 土佐の国府を出て、大津から浦戸へ漕ぎ出したばかりの12月27日。出発準備や送別の慌ただしさのなかで「京にてうまれたりし女子、国にてにわかに失せ」る。娘を失った悲しさから、
 都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり
 懐かしい都へ戻るうれしさの中でふぅと悲しさがこみ上げてくるのは一緒に帰るはずの愛娘が亡くなってしまったからなのだ、と歌う。痛切な歌である。同じく、死んでしまったことを忘れて、「どこにいる」と居場所を問うてしまうことは、とても悲しいとも歌う。
 あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける
 送別の宴は続き、浦戸から大湊まで別れを惜しんで付いてくる。ここからが本格的な外洋になり、見送りの人びととも別れる。次の宿泊地は今はなばりと読ませている奈半(なは)。奈半に至る途中に宇多の松原があり、見渡す限りの松林、松の根本にまで波が打ち寄せどの枝にも鶴が飛び回っている光景が土佐日記には描かれている。しかし、今日このような美しい松林の風景を見ることはできない。道路脇に見えるのは貧弱な海岸線である。いよいよ波が荒く、天気待ちの航海がはじまった。奈半の港をでて室津に向かう船路で子を思い紀貫之は絶唱する。
 世の中におもひやれども子を戀ふるおもひに揩ウるおもひなきかな
 室戸岬室津からは突き出た室戸岬(御岬)を回る難所である。室津に正月12日に入り、出たのが21日。「いたづらに日を經」る間に節忌(せちみ)など形ばかりの精進をして過ごす。紀貫之は任期中に海賊への取り締まりを行っていたので、復讐をおそれた旅でもあった。復讐と船旅との怖さからすっかり白髪頭になってしまったと記している。次の難所は阿波の水門(みと)、今の鳴門海峡を、海賊を避けて夜に渡る。
 ようやく、渡って一同ホットした様子である。和泉国に入って、泊まる浜辺の貝や小石に娘を思い出して、白珠のような娘を忘れないように忘れ貝を拾うのは止める、娘を恋いつづける気持ちを形見としたい、という歌を歌う。
 忘れ貝拾ひしもせじ白珠を戀ふるをだにもかたみとおもはむ
 「をんなごのためには親幼くなりぬべし」。分別がつかなくなってしまうというのだ。そして、「珠」というほどの娘ではなかったと人は言うかも知れないが、親にとっては「死し子、顔よかりき」と口調を強める。こうして、旅も終わり、都の荒れ果てた自宅に戻る。植えてあった松が枯れ、新たに近頃生えた松もある。
 生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
 見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや
 この家で生まれた愛娘は帰ってこれなかった。新しく生えた小松を見ると、このことを思い出されて悲しい。亡くなった子供が松のように千年生き続けることができれば、こんな悲しい別れをしなくてもよかったのに、と歌う。「遠く悲しき別れ」という言葉に今は遠い土佐国で死に別れた娘との距離間がうまれる。
 土佐日記の終わりは次のように結ばれている。「忘れがたく、口惜しきことおほかれど、え盡さず。とまれかうまれ、とく破りてむ。」亡くなった子供のことは忘れられない。心残りも多いが書き尽くせない。ともかく早く破ってしまおう。悲しみの旅日記は、耐えられぬほどに悲しみを増幅させるので破り捨てようと言うのか。挽歌は千年を過ぎた今日でも読む者の心に悲しみの心を呼び起こす。
 「土佐日記」は角川文庫を使用三谷榮一の訳注を参考にした。(2004/8/15
楽書快評
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