書名 ジョン万次郎漂流記
著者名 井伏鱒二
初出 1937年9月 河出書房
 河出書房の記録文学叢書の1冊として書き下ろされた漂流記である。大仏次郎の強力な推薦で直木賞も得ている。
 土佐国幡多郡中の浜(現、土佐清水市)の万次郎をはじめ5名の漁師が暴風にあって、無人島(鳥島)に流れ着き、3ヵ月後にアメリカの捕鯨船に拾われ、アメリカ本土で教養を身につけた後3名が戻ってきた話である。そのひとり、ジョン万次郎は幕末の異才として有名である。井伏鱒二は「さざなみ戦記」でも、少年の成長物語を描いているが、この小説でも14歳で遭難した「ジョン万」の成長が主題である。このような成長物語が作者には興味があるようだ。
 ジョン万次郎は特異な経験を生かして、幕末をそれなりに駆け抜けた人材である。だが、井伏鱒二はそこの部分は詳細していない。あくまでも帰ってくるまでの漂流記であり、この過程で成長するジョン万の物語が記録されている。成長したジョン万は何をしたかったのか。結論を先に言おう。故郷に帰って、アメリカ風の鯨取りをしたかったのだ、と井伏鱒二は言っている。
 アメリカの捕鯨船に拾われて、初めて捕鯨を見る。本当に映画のシーンを見るような描き方である。
 「六隻の伝馬船はさきを争って進んでいったが、そのうちの一隻は浪のうねり二つほどさきに漕ぎぬけて行った。銛を手に持った刃刺人(はざし)は舳に立ち、その伝馬船が浪にのって高く揺りあげられた瞬間を見て、鯨に向け発止とばかり銛を投げつけた。伝馬船は浪のうねりを横に切って本船の方に漕ぎ戻し、銛も縄を長くゆるめた。鯨はその縄を曳いて伝馬船を引きまわし、浪のうねり3町4方あまりも逃げまわった。他の五隻の伝馬船からも続けさまに銛が飛んで行った。鯨は大浪を立てて狂いまわり、やがて突如として半身を海中から現わした。それは海中に屹立する奇岩のように見えた。銛の一つが鯨の心臓に命中したのである。銛は潮吹孔から高く血柱を吹き、次第に狂いまわる活力を失って行った。そして浪のうねりに任せながら浮き沈みして、その大きな図体が最後にゆっくり横倒しになった。伝馬船の水夫たちは鯨の背中にとび移り、止めを刺した太い縄を尾鰭に結びつけたりした。」
 ルポルタージュである。
 「万次郎等は本船の甲板で固唾を飲んでこの鯨漁の光景を見物していた。」何を感じたのか。それはこれまで鱸釣をほそぼそとした自分たちとの違いである。「土佐では鯨一頭を捉まえると七浦栄えると云っている。異人式のこの仕掛で鯨を仕止めるなら、七浦どころか七十浦栄えるかもしれないだろう。」この思いが終生続いたかのように小説では描かれている。果たして事実はいかがであったろうか。知る者はいないかも知れない。
 アメリカに渡った万次郎ひとりは船長に引き取られ、鯨取りの技術の習得を得るようになる。こうしてジョン万は必要な技術は得て、後は故郷に帰るのみである。沖縄にたどり着いた3名の漂流者はこうして土佐に戻ることができた。だが、歴史はジョン万を政治の舞台に乗せる。通訳としての役割である。士分となった万次郎は日米条約批准交換のための一行に加えられ、再びアメリカ大陸を踏むこととなった。ジョン万が望んだ仕事ではないと井伏鱒二は書き込む。幕末の動乱期に万次郎は幕府に捕鯨業を幕府の直営とすることを建議した。安政6年(1859年)2月、万次郎は鯨漁御用に任せられ、捕鯨に関する総支配人に該当する権限を与えられた。だが、アメリカのように捕鯨する内発的な要請が当時の日本にはなかった。アメリカの捕鯨はそのために日本に開国を迫ったほどに重要な時事問題であった。鯨油が必要だったのだ。どうしたわけか井伏鱒二はこの経済的な必要性の相違に論及しない。鯨油は単に燃料というのみならず、機械を運転するために潤滑油として必要不可欠ものと考えられ、アメリカは太平洋の捕鯨に進出するのであった。産業革命とは無縁であったこの時期の日本で、必要性のない万次郎の主張は、広がることはなかった。日本の捕鯨は鯨油ではなく、食用の捕鯨で主である。
 「明治五年、再び病いを発し、以来幽居して専らその志を養った。ただ一つ思い出すだに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。」と井伏鱒二は述べる。24歳で沖縄に上陸して以来、44歳で病に倒れるまで、開国の動乱の中に巻き込まれてきた。その中で、見果てぬ夢をジョン万がもてただけでも幸せであった。時と場所とを得なくては、夢は実現できないが、見果てぬ夢でも夢があることはすばらしかったといえる。ましてや、政治が覆った土佐にあって捕鯨という夢がもてたこと自体が特異のことである。44歳で脳溢血に倒れた以降は快癒しても再び表舞台に立つことはなかった。時代はジョン万を追い抜いていったのである。おおよそ成長後の物語は、成長過程の物語より輝いてはいない。
 ジョン万次郎が育った高知県土佐清水市は、足摺岬近くにあり、四万十川で有名な幡多地域にある。大化の改新までは波多国(初代国造は事代主命の後裔・天韓襲命)を作り、養老2年(718)までは土佐に入るには官道は伊予経由であったという。金達寿は「日本の中の朝鮮文化9」で幡多に言及している。中世には、応仁の乱の京都から逃れた一条教房からはじまる一条氏が、中村市にあった荘園を中心にした領国経営を行った。幡多という地名は渡来系秦氏との関連を思わせるが、ハタについては「朝鮮のpat()から、またpata()による海人族の関係地名、蒙古語の山峰から村の意に転じた語、などの説」(「地名の語源」角川小辞典)もあり、確定することはできない。
 幡多地域は、高知の中心からかなり外れた地域であり、経済圏は伊予(愛媛県)との関連も強く、独自の歴史を感じさせる。漁師ジョン万が終生、井伏鱒二のいう異人式の捕鯨にこだわり、七十浦栄える夢を見た背景にはこのような幡多地域への思いがあったかも知れない。
 井伏鱒二がこれを書いたのは戦時体制強化の頃である。鬼畜米英を掲げるご時世に、アメリカ人との友好も描いた井伏鱒二の胆力は感心する。同じ年、永井荷風は「墨東綺譚」を、川端康成は「雪国」を発表している。それぞれのしたたかな対応を見ることができる。(2004/8/22)
楽書快評
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