
書名 陰陽師
著者名 夢枕獏
初出 1988年 文芸春秋
陰陽師・安倍清明はいう。
「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ。」
「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ。」
夢枕獏はうまい物語り手である。平安時代の陰陽師を素材として妖しげな物語を綴る。物語を物語る根幹は、名付けることは呪うこと、「呪はものを縛ること」という言葉のなかにある。陰陽寮、そこは天武天皇が始めた、天文・暦数・卜占を務める役所。暦を定めるということは、地上の支配者が唯一行うものである。その頭である陰陽頭にもなった高級官僚である安倍清明は、自然世界の現象を把握し、「これはこのようなことだ」と名付けることが職務である。夢枕獏は安部清明を描くに当たって次のように言った。「平安時代とは、雅な闇の時代だとぼくは思っている。その、たおやかで、雅で、陰惨な闇の中を、風に漂う雲のように、飄ひょうと流れて行った男の話を、ぼくはこれからするつもりなのである。」
夢枕獏は「玄象という琵琶鬼のために盗らるること」の話から始める。
あの、藤の木のある庭である。
「藤の木があるだろう」
「あるな」
「おれは、あれに、みつむしと名をつけた」
「名を?」
「呪をかけたということだ」
「だからどうしたーーー」
「けなげにもおれの帰るのを待っていた」
「なんだと?」
「花がまだ咲き残っている」
藤の花のにおいが漂ってくるようなシーンである。名付けるとは名付けられた側だけではなく、名付けた側も縛ることである。
「陰陽師」では冒頭に安部清明のエピソードが「今昔物語」から引かれている。平安中期、師賀茂忠行が牛車で羅生門近くまで行ったおり、徒歩で付き従っていた安部清明が前方より鬼達が向かってくるのを発見して師忠行に伝え事なきを得た。このことがあってから賀茂忠行は「瓶の水を写すが如」く陰陽道を伝えたという伝承である。陰陽道はもともと賀茂氏が伝えたものである。賀茂氏(暦職)は大和国葛上郡を本拠とした古代豪族、大国主神の後裔を称する。だが、これも確かなものではない。吉備真備の後裔とも言われている。奈良時代に唐に留学した吉備真備が陰陽道の極意を得て帰国した、という伝承があり(「日本陰陽道史話」村上修一 平凡社)、ここから権威付けのために賀茂氏との関連を唱えられてのだと想像できる。賀茂氏は暦をつくる家系として陰陽寮において世襲された。
これ以上に安部氏は家系的に怪しい。大和国十市郡安部から出た阿部氏の後裔という。大化の改新の際に左大臣となった阿部倉橋麻呂の続きで、大膳太夫益材の子だという。安部氏は天才清明のあと、天文道の専門家として陰陽寮において世襲された。花山天皇が藤原道兼に騙されて出家した有名なエピソードに関連して、それを察知した記事が「大鏡」にでてくる。だが、村上修一が上述の「史話」のなかで、「この話は、清明の超能力者ぶりを誇張して書かれたもので、天皇の譲位を暗示するほどの天変も記録に見当たりません。」という評価をしている。正しいように思える。
夢枕獏が引用している安部清明の話は別にある。「今昔物語」から、播磨国の老法師の智徳が式(識)神を操って安部清明に挑んで、みごとに打ち負かされた話である。夢枕獏は老法師に言わせる。「それにしても、昔から識神を使うことはたやすいのですが、人の使う識神を隠してしまうなど、並のお方のできることではありません。」ものを縛る力の相違であろうか。
「玄象という琵琶鬼のために盗らるること」は「今昔物語」から取った話である。玄象という琵琶が、それをつくった天竺生まれの旅の楽師によって天皇の元から盗まれた。その楽師は鬼となって羅生門に住みついて、琵琶を奏でるのであった。その、鬼を安部清明が退治する話である。退治した後に夢枕獏は語らせる。
「知らんのか、博雅、優しい言葉ほどよく効く呪はないぞ。相手が女なら、もっと効きめがあろうなー」
安部清明を「闇の中を、風に漂う雲のように、飄ひょうと流れて行った男」として描けただろうか。「玄象という琵琶鬼のために盗らるること」と「梔子の女」には飄とした雰囲気が安部清明に感じられる。それは名付けることにこだわったからである。しかし、「陰陽師」のほかの話は闇のグロテスクさに埋もれてしまったように思える。
「今昔物語」のみならず「大鏡」「宇治拾遺物語」「源平盛衰記」「発心集」「峰相記」などに説話が残るには残るだけの人物であったのだろうと思う。時々天才は生まれるものである。平安時代末期に安部泰親が出たくらいである。だが、天才でなくても家職を継いで行くことはできる。
その後の賀茂、安部家はどうなったであろうか。時代とともにその家職の内容も変化しつつ、何とか生き続けるとができたのだろうか。官僚として国家の暦と天文を担うことから、やがて貴族たちの家や個人を対象とした陰陽道となり、加持祈祷などを生業とする陰陽師に変わっていった。武士の世となると、持っていた所領も奪われ、また戦乱の京都にあっては陰陽師としての生活が成り立たなくなっていく。特に、応仁の乱は京都の貴族社会にとって危機的な状況をもたらした。京都から逃れる貴族たちもいた。安部家(土御門家)は応仁の乱を逃れて、若狭の遠敷郡名田庄に移り約90年間も住むこととなった。
飛騨の姉小路氏、伊勢の北畠氏とともに土佐の一条氏は「三国司」と言われ、戦国大名化した貴族である。藤原北家の関白・太政大臣一条兼良は応仁の乱を逃れて奈良・興福寺に逃れた。その子、教房も関白を務めたが、応仁2年(1468年)奈良経由で土佐国幡多荘へ下向。16000貫の所領の経営に当たった。一条房家、房冬と続いて、やがて長曽我部氏に滅ぼされるまで、土佐国中村にあって領国経営に当たった。
話は陰陽師に戻ろう。陰陽師に幸徳井家がある。「かでい」と読む。賀茂氏は京都の住む所の名をとって「勘解由小路(かでのこうじ)」家と名乗った。応永26年(1419年)に陰陽助賀茂定弘の弟子安部友幸が定弘の養子となり、住まいを京都から離れて南都(奈良)幸徳井に移った。この安部家から入った賀茂氏の庶流を幸徳井家という。地方に下って、奈良の有力寺院相手の陰陽師としての場を作ったと思われる。その後、賀茂氏嫡流が途絶えると京都においても一定の地位を得ることができるようになる。江戸時代になると暦を作るのは江戸幕府の天文方となり、幸徳井家はその天文方が作成した暦に注解をすることが家業となった。他方、幸徳井と名乗る陰陽師が奈良の陰陽町(いんよう町)に住み、全国を巡って占い、祈祷を行い、そして鎮宅霊符、奈良暦(幸徳井暦)を売り歩いた。いまも、鎮宅霊符神社が奈良にある。江戸時代には13家もあったというが、現在も陰陽町に吉川家が残っている。
この幸徳井のひとつが、先に横道にそれた土佐一条家に伴われて、中村に移り住んだという話がある。「帝国主義」(岩波文庫)の解説で山泉進は、幸徳秋水の妻であった師岡千代子が「風々雨々」で秋水の先祖を「安部晴明の末裔で幸徳井某と云う人」と書いたことを紹介している。陰陽師の幸徳井が、応仁の乱を逃れた一条教房に従って幡多の荘園に土着したという言い伝えがあったのだろう。一条家は奈良に住んだこともあり、あながち無理のある言い伝えではない。
中村では幸徳秋水は天才と呼ばれていた。陰陽師の末裔が明治の世を帝国主義と名付けたのだ。ここにも、戦いを好み、民を苦しめる鬼がたくさんいた。言い伝えを信じたい。(2004/8/29)
参考:
南都暦
http://www.tsm.toyama.toyama.jp/curators/aroom/bunka/kinki/nara.htm#nanto
鎮宅霊符神社http://urano.org/kankou/naramati/mati5.html
日本の苗字7千傑http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02108.htm
福井県の星の文化史
http://www.tsm.toyama.toyama.jp/curators/aroom/bunka/chubu/fukui.htm
日本陰陽史話 村山修一 平凡社ライブラリー
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