
書名 無声慟哭・オホーツク挽歌
著者名 宮沢賢治
初出 1953年 新潮文庫
草野心平が特別に編んだ宮沢賢治のアンソロジーである。妹とし子を悼んだ詩篇を揃えた草野版詩集は、草野心平の観賞眼の確かさを示すものであった。草野心平は「はしがき」でこのように回想する。「私は既に広東にいたときから『春と修羅』が驚愕の書であることを知っていたから、五銭でたたき売りされていることが残念だった。私は折にふれ、この詩集を買った。5、6冊は買ったように記憶している。そして友人にやって読むように勧めたりした。この『春と修羅』は製本の糸とじが大変悪く1、2回通読すればバラバラになってしまう。私は恰度『セロ弾きのゴーシュ』のなかの子猫のように、バラバラになった詩集をゴムテープでパチンとしめて懐ろに入れて歩いたものだった。二円四十銭の本が五銭で叩き売りされているということはその本が売れない証拠になるであろうが、それに輪をかけて私は変な空想をもっていた。それは無声慟哭・オホーツク挽歌の一連のエレディを、それだけを独立したパンフレットにしたいという希い。本郷のアトリエで高村光太郎氏にそれをはなしたことがある。」(現代仮名づかいに改めた)。この企画は1953年になって実現した。それがこの一冊である。残念ながら、今は絶版になっている。このような草野心平の肩入れに対して反発していた人々もいた。例えば、稲垣足穂である。「私は永いあいだ、名前は聞いていながら宮沢賢治を読まなかった。それは例の東北の泥臭い手かと思っていたからである。光太郎派の大ボスの草野心平が持ち上げていると云うし」と述べている(「銀河鉄道頌」雑誌ユリイカ1970年7月号)。確かに蛙シリーズの草野心平を思うと、いかがなものかとは思うが、審美眼はあるということだろう。
「永訣の朝」は、今日中には亡くなってしまうと思う妹に向けた、まなざしの深さを思わずにはいられない。
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
と歌う。この美しい詩篇に疑義をはさむのは会田綱雄である。「私のすべてのさいわひをかけてねがふ」という終行が、とし子の今度生まれてくるときは自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい、という願いに対して「弱いような気がする」と述べた(『「無声慟哭」三部作』ユリイカ1970年7月号)。なぜ、その生を願わず、すでに死んで「天に生まれる」ことを歌うのか、と追求する。「たれが見ても、とし子の回生は不可能だったにはちがいないが、それが不可能であればこそ、ひとは愛するものの回生を必死にいのるのではなかろうか。」そしてこのように結ぶ。「妹の回生をいのり、その奇蹟をねがうためには、賢治は彼の死をかけなければならなかったはずである。そしてその“死”に賢治が耐えきれたとすれば、恐らく『無声慟哭』三部作は成り立たなかったにちがいない。その“死”に耐えきれなかったからこそ、詩のなかの“わたくし”は完璧に妹の死を嘆くことができたのである。未完の童話『銀河鉄道の夜』の、ザネリを救って死んだカムパネルラは『無声慟哭』三部作の“わたくし”をはるかに超えて神聖である。」なるほど、そのように読むことができるのか。永眠の日に書かれた詩ではあるが、看病しながらの現在進行形の作詩であったのだろうか。そうであれば、会田綱雄の見解も頷ける。だが、死後に思いをつづったものであれば、「けふのうちに、とほくへいつてしまふ」と予見したかのように書き込まれているからといって、回生を祈らなかったと、とがめられることではない。もちろん「わたくしのすべてのさいわい」という大きな言葉が“かるい”という会田綱雄の受け取り方は正しい。だが、このような大仰ないいかたは宮沢賢治の特質であり、だからこそ大衆受けする要素でもあるのだ。「銀河鉄道の夜」でも大仰で宗教的な言い回しはたくさん出てくる。そのような言葉を含めて宮沢賢治のイメージの豊富さがすごいのである。このようなイメージは、近代的な自我を修羅として内省し、大きな物語(宗教など)による救いを見出そうと、そのなかであがく、その姿勢からうまれてきている。カンパネルラの無私の行いに宮沢賢治が同化しているわけではない。主人公ジョパンニの心の動揺、あがきのなかから「銀河鉄道の夜」の豊かなイメージがうみだされてくるのである。
1923年(大正12年)夏、岩手県花巻から宮沢賢治は北海道、樺太旅行に出る。夜汽車の中で思うのは半年前に亡くなった妹のことばかりである。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
で始まる「青森挽歌」は私が最も気に入っている挽歌である。まるで「銀河鉄道の夜」を思わせる。美しい挽歌である。さまざまな幻は豊かなイメージの連鎖を導く。(乾いたでんしんばしらの列が せはしく遷つてゐるらしい きしやは銀河系の玲瓏レンズ 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)。妹が昇った天の近く、すでに夜汽車は銀河系の中にある。
そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつたらうか
宮沢賢治は妹との交信を願ってやまない。「なぜ通信が許されていないのか 許されてゐる そして私のうけとつた通信は 母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだろう」。どうして自分は「さうなのをさうと思」えないのだとうか、この自問は、修羅の中に自分があるからであり、だが、その修羅を超えて妹を思う。
ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
あらたにどんなからだを得
どんな感官をかんじただろう
なんべんこれをかんがへたことか
草野心平は解説で「この詩は妹への挽歌のなかで一番長く、そして一番の傑作だと私は思っている」と述べている。その通りである。しかし、分析は鋭くない。「あいつばかりがいいとこに行けばいいと さういういのりはしなかつたとおもひます」と青森挽歌を結んだことに関して草野心平は「全編を通じ『ます』という丁寧な言葉が出ているのはこの一箇所で、敬虔な気持ちを反映している。」と語り、「余韻をのこす最後の行のこの不思議な効果は、心の座にいつはりのない状態の告白だ」と分析している。いつものように大きな物語に帰依しようと、しているのみにしか思えない。この結びのみに着目してしまうと、「雨ニモマケズ」への過大な評価に至ってしまう。稲垣足穂は先の文章で「銀河鉄道の夜」を推し、他方、「『雨ニモマケズ』なんて云うしみったれた愚痴は、私は買わない。」と当然の言葉を吐く。果たして、草野心平のいういつわりのない心の座であったのか。
1896年(明治9年)に生まれた宮沢賢治は、1922年(大正11年)11月に妹と死に別れ、そして1933年(昭和8年)37歳で亡くなるまでの短い一生であった。だが、その短い一生のなかで日本語が持てる限りの豊富なイメージを残した。「銀河鉄道の夜」が未完であるように、宮沢賢治は心が引き裂かれたその裂け目から言葉を発し続けた。近代的な自我に心の座を持つこともできず、また大きな物語に救われることもできないなかにこそ、宮沢賢治がいる。
補足;私の中で高く評価する詩人は、宮沢賢治と谷川雁である。下部構造決定論が幅を利かせていた時代に「イメージから変われ」と扇動した谷川雁の言葉は、今日でも有効である。
三木卓の次のような文章を読んで改めて思う。「私は宮沢賢治と似た心性の所有者として谷川雁を反射的に起想する。賢治は東日本の戦前型であるのに対して雁は西日本の戦後型であるが,イーハトーヴォと<おれたちの青い地区>は、さまざまな点で<東京への感覚まで含めて>相似しているところもあるように思われる。そして作品の世界もまた、ある意味で似た質を持っていると思う。」(「賢治の<美しいもの>とは何だったのか」ユリイカ1970年7月号)。三木卓が引用している、黒田喜男の言葉を使わしてもらえば、彼らの農本主義は確かに「帰ってこようとしている」ところのものである。それが悪いわけではない。(2004/9/5)
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