書名 幽霊武蔵
著者名 光瀬龍
初出 1979年11月号 野生時代
 妖怪退治をする宮本武蔵の物語である。時は江戸初期、徳川家指南役を射止めようとして江戸へあがった宮本武蔵が、行きがかりから求められて戸田家下屋敷の妖怪退治を依頼された話である。
 「(下屋敷を預かる平内老人は武蔵の問いにこのように応える。)それも、くわしく調べた。当家の菩提寺住職の申すには、この土地は吉相の土地とのこと。遠い永禄の頃、この屋敷のあるあたりに、大きな星が堕ちたとのこと。以来、村人はこの土に小祠を設けて妙見菩薩を祭ったという。林の奥にある古祠がそれであろう。かように、思い当る節とてないのじゃ。」妙見とは北斗七星への信仰で、道教の流れがある民間信仰である。流星に乗って異星人がやってきたと、話はSF調の色彩を帯びる。下屋敷に寝泊りして4日目の深夜、それが現れた。
 「切りつけるか、それとも手捕りにするか、一瞬迷った。
 そのものがふりかえった。
 白とも銀ともつかない微光を発する顔の真中あたりに、眼窩があり、魚のような、またたかない目があった。鼻も口もない。
 その顔が迫ってきた。
 武蔵は無意識に抜刀した。
 構えも何もなく、摺り上げながら片膝をついてやり過ごした。むろん手応えはなかった。」
 「そのものは、庭の築山の下を回って背後の雑木林へ入ろうとしていた。
 武蔵は歯を喰いしばって突進した。
 そのものがふりかえった。
 片手を武蔵の方へ突き出した。その手の中の物体が、暗赤色にかがやいた。
 武蔵は手の大刀を投げつけた。4尺の大刀は、そのものと武蔵の間の空間で、刀の形をした火の塊となった。
 その下を飛鳥のようにかいくぐり、武蔵は躍りこんだ。
 腰に残った大刀の鞘を抜きとり、片手でおがみに打ち込んだ。
 手応えがあった。
 武蔵は打った。打った。打った。」
 妖怪退治をした、宮本武蔵は「幽霊武蔵」と呼ばれたが、ついにご指南役につくことはなかった。「その翌年、武蔵は江戸を離れた。戸田家下屋敷の塚は、その後、幽霊塚と呼ばれ、太平洋戦争前まで存在した。」と小説は結ばれている。
 武士が妖怪や幽霊を退治する話は少しも奇異ではない。さぶらう者としての武士が発生した平安時代は物の怪が跋扈した時代である。9世紀末、宇多天皇の時代に滝口が置かれ、そこから武士の発展があるといわれている。野口実の「武家の棟梁の条件」(中公新書)では滝口武士は「鬼とかモノノケ・邪気・穢(けがれ)などから天皇を守護するという、『辟邪の武』を担う存在だった」と規定している。この言葉からすると、対人的な武力の行使ではなく、より呪力が求められていた、といえる。大江山の酒呑童子を退治した源頼光の四天王の一人、渡辺綱や、鎮守府将軍藤原利仁、平将門の乱の平定に活躍した平公雅、征夷大将軍藤原忠文の、子孫が滝口を代々勤めている。現実的な武力と『辟邪の武』とは同じ威力と感じられていたのだろう。「滝口が宿直奏の時に行った鳴弦(弓の弦を打ち鳴らして邪気を払う)は、すぐれた武人が行うことによってこそ、大きな効果をあらわすものと考えられていたのである。」(野口実)。このような武人が都を守るという発想は初代の征夷大将軍坂上田村麻呂の墳墓が危機にあっては鳴動するという伝承にもつながる。
 源頼光は摂津源氏の祖であり、摂津の渡辺津を本拠とする渡辺党を郎党に組み込んだ。渡辺党は水辺の武士である。九州の松浦党という海賊集団は渡辺党の後裔を名乗る。この一族は綱のように一字名を特徴とする。
 平安貴族を脅かした新皇・平将門(「尊卑分脈」には青年期に滝口小次郎と呼ばれていたことが記されている。滝口の武士として使えていた時期があることが伺える)は東国にあっては庶民の人気を後々まで得ていた(江戸総鎮守社・神田明神は将門の霊を祭る)が、貴族にとっては乱が平定された後も怨霊となって悩まし続ける存在であった。将門を討伐した藤原秀郷は、妖怪退治の英雄として室町時代にはお伽草紙「俵藤太物語」の主人公となっている。琵琶湖に棲む大蛇のために、近江の三上山に巣くう大百足を退治して、取れども尽きない米俵などを返礼としてもらった伝承である。伝承は続く、将門を退治するために、藤太は東国にくだる。7人の影武者(大岡昇平は「将門記」で影武者7人という設定を、妙見=北斗七星の信仰との関係を推測している)をもち、全身鉄より成るという将門。かれの弱点を探るため大蛇が変身した「桔梗の前」の告げ口、「動くこめかみだけが生身」、によって射た矢は見事将門のこめかみに当たり、藤太は英雄となる。奥州藤原氏は秀郷の後裔を名乗る。
 桔梗の前の裏切りが起因して、相馬に咲かずの桔梗の伝承がある。大岡昇平は桔梗の5弁が星型をしていることを記している。平将門が全身鉄という設定も、頷けるものがある。彼の根拠地、茨城県岩井市付近(北相馬郡、猿島郡、豊田郡に当たる)からはふいごの跡も発見されている。農具、馬具、そして鉄剣などの生産が行われていたのかもしれない(「歴史誕生」2巻 角川書店 1992)。将門の後裔を名乗る相馬氏は相馬野馬追いの行事を伝える。
 宮本武蔵の話に戻ろう。明治以降の小説や評論では「五輪書」を熊本で書き上げた宮本武蔵の姿を求道者として仰ぎ見る者と、策を弄して勝負に勝ち、それを自己宣伝した一介の剣術家にしか過ぎないと見る者とに分かれてきた。妖怪とかモノノケを前近代的なものとして退け、人を人としてみようとする意識が働きすぎ、物語を狭めてしまう姿勢はどちらの側にも言えることである。
 うつつの武力と、ゆめの呪力とが、分かちがたく結ばれたのが武士というもの姿であった。従って、剣聖・宮本武蔵にもこのような妖怪退治の伝承があっても不思議ではない。光瀬龍が「幽霊武蔵」を描いたのもあながち不思議ではない。このような伝承がなかったことのほうが不思議である。(2004/9/12)
楽書快評
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