久坂玄瑞は吉田松陰門下の俊英。積極的な推進者ではなかったとはいえ蛤御門の変の立役者である。しかしそれは長州藩が中央政界で劣勢に追い込まれた末の暴発である。鷹司邸で自決。享年25歳。諱:通武。字:玄瑞、実甫。通称:幼名秀三郎、誠、義助(よしすけ)。松陰から『防長第一流の人物』と評価され、また高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』、吉田稔麿、入江九一を入れて『松門四天王』と称される。が、高杉晋作に比して小説に取り上げられる機会も少ない。この若く逝った久坂玄瑞はなぜか私には好ましい。
山口の友人Tさんに連れられて、岡山の友人Kさんと萩に行った折り、毛利家菩提寺護国山東光寺に赴いた。その壮大な墓石群の端に蛤御門に倒れた藩士たちの墓もあり、一段とみすぼらしく久坂玄瑞の名前が書かれた墓もあった。この扱いに寂しさを抱いたことが思い出される。
久坂玄瑞は京都で倒れた。玄瑞の遺体は、京都一乗寺(詩仙堂)に葬られた。太政官布告によって改葬され、今は京都東山霊山に墓がある。その他、萩市椿東椎原(護国山)の杉家墓所内に遺髪の埋葬された墓碑が建つ。久坂玄瑞招魂墓(山口市秋穂二島「朝日山招魂場」、久坂玄瑞招魂墓(下関市上新地2「桜山神社」)、
萩市平安古町の久坂玄瑞生誕地にもある。
遠い昔、京都への修学旅行で蛤御門に行った。蛤御門は新在家門といわれていたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれている。私がそこで見たものは御門に刻まれた弾痕である。所謂「八・一八の政変」で中川宮を中心とする会津・薩摩両藩の公武合体派によるクーデターにより、長州藩は皇居警備の任務を解かれ、失脚。長州派の7人の公卿たちは京都を脱出、長州へ落ち延びた。元治元年(1864年)、長州藩は藩兵をそろえて、京都進発。7月19日に開戦。この戦いはわずか一日で長州勢の敗北に終わった。しかし戦火は三日に渉って燃え続け、焼失した家屋は二万八千、下京の大半が瓦礫と化した。この火事を京都の人々は「どんと焼き」と呼んだと言われている。この火災によって京都の文化財の多くが失われた。
蛤御門は火事と縁がある。
さて、「花冠の志士」で描かれた久坂玄瑞は年齢が大きく違う兄玄機への憧れとコンプレックス。そして、髷を結えない医者の身分への反発。15歳にして母、兄、父と次々に失い、孤児となる寂しさ。これらを抱きながら激動の時代を駆け抜けた青年の物語として描いている。「華やかに、うるわしく、いさぎよいかれの青春」がこの小説のトーンである。だが、久坂玄瑞はそれだけなのか。吉田松陰がいう『防長第一流の人物』は、藩を越えた戦略をもちながら、藩という組織を戦術的に使っている。松下村塾生に共通の対応であり、さらに藩の中に高杉晋作らによって奇兵隊という藩体制を越える理念を実現する新たな武力を得ることで、全国闘争を勝ち抜ける道を見出した。しかし、1864年ではまだ2,3万に及ぶ諸藩の武
士に及ぶ段階ではなかった。「勅命で討たれて見せるのも、今はわが志である。」という来島又兵衛に引きずられて、開戦するのは我慢が足りなかったと言う批判を受けなければならない。蛤御門の変を防ぎ、下京の大半を灰燼帰することなく、そしてまた近代化を進める有為な人材を一人でも多く残すことを、その地点でできた唯一の人間が久坂玄瑞であった。なぜに、「新しい国」での松下村塾生の代表者が伊藤博文や山県有朋なのだろうか。
「また遠い前途に築くべき『新しい国』を構想することも、すでにかれの役割ではなかった。未来への突破口となるべきひとつの穴をうがつ使命、玄瑞が生きた四半世紀の生涯は、結局その一点に収斂したのだ。」と古川薫はいう。それは結果論だ。私は、明治維新の内実を豊かにしたかも知れない久坂玄瑞など多数の人材が 失われたことを嘆きたい。
書名 花冠の志士
著者名 古川薫
初出 昭和53年から昭和54年まで山口新聞連載。
54年7月「花冠の志士ー久坂玄瑞伝」文藝春秋
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