楽書快評
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書名 源実朝
著者名 吉本隆明
初出 1971年 筑摩書房
本殿から右手に銀杏を見て急な階段を降りていく 健保7年(1219年)1月27日、前夜より降り積った尺の雪の中を、源実朝は右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮に詣でた。石階の際より窺っていた公暁により刺殺された。28歳であった。予感された死であったと思える。前年、健保6年(1218年)2月14日、武家の統領として最後の二所詣に出かける。行き先は箱根である。ここであまりに有名な和歌を詠ずる。死への予感の中で自分は孤立する「沖の小島」であり、あるいは「波われてくだけて裂けて散る」自分を見ていたのだ。そこには精神の緊張がある。
 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ
 大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
 これらを吉本隆明は「実朝の最高の作品といってもよい」と評価している。「わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる、悲しみも哀れみも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また、由緒があり、感慨があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感動の貌がみえるようにおもわれる。」この<事実>は実朝のおかれた鎌倉幕府の<制度>的な<事実>と結びついていると吉本隆明はいう。「また、ある意味では鎌倉幕府の<制度>的な帰結でもあった。頼朝以来の源氏三代の将軍職は、実朝まできた、そこに<将軍職>があるから将軍がいるのであって、必要だからいるのでもなく、また不必要にもかかわらずいるのでもなく、ただ<事実>としてそこにいるのだ、ということになってしまったともいえる。」
 同じ1971年、中野孝次は自分の遺書を書く意気込みで書いた「実朝考」を雑誌「すばる」に発表する。そこでは大海のの歌を評して「この歌の切迫したひびきが伝えるものは、------時代の終わりが同時にわが終わりと感じられ、他者の死が同時にわが死を意味するような呼応共鳴を想定せずに、この歌の個を越えた大きなひびきは納得できない。」と述べている。中野孝次はこれが書かれた年を和田合戦の前後を考えている。時代の終わりとは何を示しているのか。「治承寿永の戦乱を機に一挙に結集され、日本中を席巻して、その煮えたぎる状態のまま狭い鎌倉にひしめいていたのが、実朝の生きた20年だ。これら反逆者集団は野蛮そのものであった。-------この時期の自由人たちが、血を血で洗う訓練のはてに、結局一つの絶対的中央集権を確立することによってしか秩序を統合されえなかったのは、政治的未熟の当然の結果であったかもしれない。」坂東武者の自由な世界が、北条氏の得宗支配にいたる時代の終わりを和田合戦に見ているというのだ。中野孝次は中世への憧憬を隠さない。坂東武者の自由に対して、批判されるのは公家の現実から逃避した意識(古今、新古今)と、日本的な封建支配である。
 吉本隆明が筑摩書房の日本詩人選12で源実朝を取り上げた理由は分からない。だが、北条一族に追い込まれ、武家政権として源氏を必要としなくなったことを13歳の時から将軍職を継いだ実朝はひしひしと実感していたことは明らかだ。それを、<制度>や<事実>などのキーワードで<実朝的なもの>を作り上げた吉本隆明の手慣れた手並みを見ることができる。読む者はこのキーワードをなぞらざるを得ない。<実朝的なもの>を明らかにするために、和歌以外の世界、実朝以外の和歌の世界を延々と解説する。その中には光る論述がいくつもある。
 例えば、<総領>制である。源氏三代の鎌倉幕府は武士の<総領>制の集約された姿であるというのだ。「しかしながら、この在地武門の共同体は、血縁を疎外したところで統御されていたため、親子、兄弟が相瀬せめぎ殺戮しあうという場面を許容することになる。家父長制を体験した以降の倫理観からは理解しにくいこの陰惨さは、当時の武門では普遍的であった。やがて頼朝の後継者たちは、この東国武門の骨肉相喰む陰惨さの洗礼を必然的にうけることになる。」
 次に迷信的な世界。「こういう中世的なうすぐらい世界に同化しうるためには、実朝は適任であったかもしれない。板東を中心にした武者たちの世界は、命のやりとりをする水商売の世界であり、そこには必然的に縁起をかつぎ、奇怪な迷信に帰依し、仏道にすがるという心的な契機があらわれた。そして武門のこういう迷蒙の世界を収攬するのに、実朝は<人格>的に適していたといってよい。」「関東武門勢力の祭祀の長者としての実朝に影響をあたえたのは宗教的な教理は三つあった。ひとつは陰陽道であり、もうひとつは天台・真言のような密教的な加持祈祷である。そしてもうひとつは海人部や帰化人系統の<現神>の信仰である。海人部とここで指しているのは伊豆や三浦、房総の武士たちである。北条、三浦、千葉などの諸族。渡来系統とは武蔵武士たちのことである。確かに武蔵国をはじめ東国にもたくさんの渡来人のコロニーが作られていた。そして馬や、武具を携えてきたのが渡来系の人びとで、後の武士団を形成する中核となったことは知れる。極言すれば、武蔵武士とは渡来系の末裔である。だが、例えば高麗の地に定住した若光一行が最初に上陸したのは相模の大磯の地である。高木神社も祭られ、全ての人たちが武蔵国へ移動したわけではない。地域開発を行った渡来系氏族は波多野などたくさんの足跡を残している。相模武士が海人部だからといって渡来系氏族とは別とはいえない。
 ただし吉本隆明が、このような新たな見解は論証を得て記述しているのではない。「源実朝」は研究の書物ではなく、評論である。評論には論述する吉本隆明の意図が一義的である。この評論が書かれたのは1971年である。源実朝を題材として、社会と意識とを解析して見せる方法を吉本隆明は示したのだと思う。それに対して中野孝次は、中世の自由さに自分の救いを見出そうとしていた。
 ものゝふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
武士碑(玉藻稲荷神社) これもいい歌であると思う。籠手のうえにあられが打つ寒空にもかかわらず、関東御家人が立ち並ぶ姿は武家の頭領の本懐である。人馬の白い息吹が立ちこめてはこないか。しかし、吉本隆明は「そういう情景を想像歌としてみても、あまりに無関心な<事実>を叙している歌にしかなっていない。冷静に武士たちの演習を眺めている将軍を、もうひとりの将軍が視ているとでもいうべきか。」と分析する。吉本隆明はキーワードにこだわり続ける。中野孝次はさらに厳しい批評をしている。「むろん歌会の席で、美的場景として詠んだのである。しかし先入観念の恐ろしさは、実朝が鎌倉将軍だということで、この静止した優美な歌をまるで軍事演習中の一齣のように錯覚させるのだ。」錯覚であろうか。坂東武者の荒々しい自由精神を、それだけ取り出そうとする中野孝次は、動き出す前の一瞬の静けさは感知するものではなかった。霰たばしる那須の篠が生い茂る原野に、馬を並べる坂東武者の姿をパノラマのように出現させたのは将軍源実朝の緊張した精神である。1193年(建久4年)3月から4月にかけて軍事政権を東国に開いた頼朝は浅間山の裾野と那須野と続けて大規模な巻狩りを行った。前年に生まれた源実朝は、この軍事演習の様子を知るよしもないが、次に行われた富士の裾野の巻狩り(曽我の兄弟の話で有名な)とともに、語り継がれた源氏の一大示威行動であった。したがって詠えるの源氏の棟梁を継いだ実朝一人でしかない。それは無関心な事実でもなく、美的情景でもない。父頼朝が実施した巻狩りを詠う実朝の心には、源氏としての矜持とともに巻狩りを主催できない自分の危なげな位置を思い知ることが同居していた。(2004/9/25)
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