楽書快評
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書名 執念の家譜
著者名 永井路子
初出 1965年9月号 オール読物
法華堂に登っていく階段 執念の家譜と永井路子が名づけた三浦一族も、北条氏の圧迫に耐えかねて反乱を起こした。族滅される宝治の乱(1247年)の終末は、源頼朝の墓所・法華堂である。永井路子は次のように描いている。三浦光村が遅れて法華堂に来たときには兄泰村を始め三浦一族が既に篭っていた。 
 「ほの暗い堂内では、すでに泰村をはじめ,大江李光やその他の一族が、頼朝の遺影をかこむようにして押並んでいる。
『来たか』
 泰村は光村を迎えると、かすかに微笑した。それを待っていたように、念仏の声が、ゆるやかに堂内に流れた。北条勢もさすがに鎌倉の聖地というべき頼朝の墓所に踏みこんで殺しあいをすることには躊いがあるのだろう。戦いに勝ちながら、むざむざ聖地を奪われた口惜しさに地団駄踏みながら、ただ遠巻きにしてどよめきを繰返すばかりである。」
 源頼朝を担いで地盤近くの鎌倉に軍事政権を立てた三浦氏の矜持が、この行動に現われている。小豪族でしかなかった北条氏が頼朝の妻の実家というだけでのし上がってきたことが、すでに族滅させられた功業の御家人同様に、三浦氏にとっては納得がいかなかったのであろう。功業のときの総領は三浦大介義明であった。義澄・義村・泰村と続いてきて、執念深く北条氏と対抗してきた雄族三浦氏もまた、ここに消え去っていこうとしている。
 日本で軍事政権をはじめて作ったのは源頼朝を担いだ坂東武士団であった。次に行われたことは坂東武士団内部での権力争いである。これに例外はなかった。清和源氏の嫡流は、伊豆の土豪であった北条氏によって貴種といえども必要がなくなると族滅させられた。頼朝の長男は母と祖父、従兄弟によって押し込められた伊豆でふぐりを引き抜かれて殺され、次男はその長男の子供によって鶴岡八幡宮の境内で暗殺された。北条氏は鎌倉幕府創設の主要な御家人を次々と族滅してきた。族滅とは一族総てを殲滅するという激烈な対応である。その中で北条氏打倒の執念のためには「友の肉を食う」ことも辞さずに族滅を免れ、北条氏と肩を並べて鎌倉幕府を支えてきた雄族三浦一族もやがて破滅のときを迎える。この「執念の家譜」は鎌倉幕府御家人・桓武平家三浦一族の北条氏のとの確執を扱ったものである。
 鎌倉幕府を作り出した主体勢力は伊豆、房総半島を根城とする御家人と関東平野を開拓した小規模武士団である。伊豆や房総は黒潮の流れに乗って早くから開発された地域であり海人系の武士団が発生したと思われる。関東平野、特に武蔵野の開拓を先導した人々は渡来系の人々であると考えられる。開拓は幾層にも積み重なっているのであるから渡来系の人々が大きな力を発揮した時期を特定しなくてはならない。武蔵武士団に直結した開拓と限定してみよう。日本にはいなかった馬を持ち込み、飼いならし、また鉄を使って農具や武具をも作り出せる力は誰でもができることではなかった。そこには高度な職能集団の存在をうかがうことができる。片刃の直刀であった日本刀を蝦夷が使う蕨刀のそりをとりいれて、突くから切るへ動作をかえながら、湾曲した日本刀へと武器を変化させたのも、関東の武士団の工夫である。
 ところで伊豆の土豪北条氏も、三浦氏も桓武平家を名乗っている。桓武天皇の末裔を名乗ることは、箔をつけることであるだろう。桓武天皇は母親が高野新笠(和乙継(やまとのおとつぐ)の子。和()氏は百済系渡来氏族)である。したがって百済系渡来氏族の末裔を自称することでもある。また武蔵国高麗郷を開拓した高麗若光一行が最初に上陸した場所は神奈川県大磯である。相模国でも高句麗系渡来人の足跡は高木神社や高座郡のなどに名前に残っている。波多野は秦であろう。また、渡来系とは言っても朝鮮半島からの人々が多数であろうが、全国的にみると、中国南部の呉からあるいはシベリアや沿海州から直接に渡来した人々の姿も忘れてはならない。日本人の原像と目される「武士」について、純粋日本人を仮想することはできない。
 「執念の家譜」にもどろう。永井路子は鎌倉時代を中心として骨のある文章を書いてきたと思う。だが、この小説に三浦一族の執念が思いの外、感じられないのはどうしてだろうか。敗北を喫した三浦泰村、光村兄弟の心模様も平板である。「源頼朝の世界」では乳母というキーワードを使って歴史へのアプローチをおこなった。ここでは、受け継がれる一族の怨念というキーワードで小説をつむいだ。キーワードが一般的過ぎて、その怨念の質量に迫れなかったのかもしれない。だが、三浦氏を小説に仕立てたのは、ほとんどなく、貴重な小説である。この中で、人物が浮かび上がってくるのは、泰村、光村兄弟の妹で大江季光の妻になった時子の姿のみである。宝治の乱に突入することが必須となると、
「『すぐ来ます。李光どのも一緒に--------反対しても引張って来ます』
『なぜだ。なぜそんなことを』
時子はかぶりをふると、もう一度少女のような笑みをうかべた。
『わかりません。でも--------私も三浦の娘なんですもの』
さほど気負うふうでもなく、しかし、一語一語をはっきり区切るように言った。
 早朝早く、時子は夫の大江李光や子供をひきつれてやって来た。李光はすでに北条方に味方するべく鎧をつけていたのだが、強引に時子は説きふせて、そのまま西御門の三浦の館に連れて来てしまったのである。
 この場面が印象的である。だが、それは累代の家の執念が浮かび上がるような場面となってはいない。
族滅された中で、生き残った最大の勢力は佐原流三浦氏である。佐原一族は盛時が総領であったが、北条側に走った。三浦義明の息、総領家を継いだ義澄の弟である佐原義連が始祖である。義連は十郎と呼ばれているから10男であろう。この流れが後に三浦宗家を名乗り、戦国時代には三浦道寸(義同)が出て、後北条に抵抗しつつ三浦半島で族滅されている。これを「終章」においた意図が分からない。これは余分な別の物語であろう。
 三浦氏は良文流平氏と名乗っている。為通が前九年の役の時に恩賞として三浦半島の地を与えられた。その子為継は源義明が相模国大庭御厨に乱入した折に従っている。その子、三浦大介義明は娘を源義明に娶わせ、源義平の外祖父となっている。源頼朝の旗揚げでは、味方をしたため、平家側の畠山氏に三浦半島衣笠城を攻められ、一族を安房に逃がすも自分は止まって討ち死。長男が杉本義宗、早くに亡くなったため総領は次男の義澄が継ぐ。義宗の杉本は鎌倉にあり、その子は鎌倉幕府最初の侍所別当・和田義盛である。三浦氏というと狭い三浦半島を思い出すが、相模国の各地のみならず、対岸の房総半島にも領地をもち、現在の東京湾の入り口を押さえていた海の豪族といえよう。古代の東海道は三浦半島から武蔵国(771年までは東山道)を経ずに直接三浦半島から房総半島へ渡っていた。ヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが三浦半島観音崎の北・走水から房総半島に渡る途中、身を投げて海の神を鎮めた伝承が思い出される。
 江戸(東京)湾を渡って領地を広げたのみならず、相模国への広がりもしっかりと布石を打っていた。義継の子供たちは義明が総領家を継ぎ、外に津久井義行、芦名為清、岡崎義美がそれぞれ領土を広げていった。津久井義行は三浦半島津久井浜あたりを領有し、その子為行(太郎次郎義胤)が相模国山間部で水運の利のある西北部にある津久井郡に進出した。津久井郡の名前は三浦半島津久井浜の地名からもたらされたものだ。
 同じく義行の子・三郎義光は秋庭氏を名乗った。三浦氏は領有化した土地の名を名乗る。三浦半島近くて秋庭()の地名を探すと、鎌倉郷秋葉村がある。現在は横浜市戸塚区内である。相模国山内庄秋庭郷と呼ばれ、藤原秀郷流山内首藤氏が開発・経営した。山内庄は山内首藤経俊が平家方に組みしたため、源頼朝から土肥実平に与えられた。さらに和田義盛に管理が移った、といわれている(横浜市栄区のホームページ)。この過程で同族の津久井家の三郎義光が秋葉郷の領有を得たのかもしれない。あるいは、それ以前から領有していた可能性もある。和田義盛に山内庄を委ねたのは鎌倉に入る鎌倉街道上中下3道ともここを通る戦略上の要地であるからである。秋葉郷はその中の「中の道」が通る。なお、和田義盛の乱の後、支配権は北条義時に移り、鎌倉時代は北条得宗家の重要な兵站基地となった。後裔・秋庭重信は、承久の乱の後、備中有漢郷に新補地頭として入植した。現在最も高地(麓との標高差350M)に存在する備中松山城を築いたのはこの秋庭氏である。
 岡崎悪四郎義美は西相模の雄族中村(宗平)氏の娘を娶り、相模原を領した。三浦半島から遠い相模原を領したのは中村氏の姻族であるからと、永井路子は分析している(「相模のもののふたち」)。この「相模のものふたち」(有隣新書)は相模武士団を網羅的に叙述していて、すぐれたものである。永井路子はこの中で源頼朝旗揚げの軍事的担い手として、三浦氏とともに中村氏(中村、土肥、土屋)あげている。岡崎義美は中村氏の入り婿のような位置にある。これは特異なことではない。「東国の兵乱と武士たち」(平成7年 吉川弘文館)で福田豊彦が述べている趣旨を紹介しよう。平安時代の貴族社会では正式な婚姻は嫁入りではなく、婿取り。この習慣が地方に下向した人々によって持ち込まれ、貴種が短時間に坂東武士として根付く仕掛けとなった。舅が娘婿の出世のために努力する「婿かしづき」という用語もあったという。
 良文流平忠常が房総で反乱(1028−1031)を起こし、これを鎮圧する追討史となった相模、伊豆に基盤を持つ貞盛流平直方は、成果を上げることができなかった。追討史は河内源氏頼信に代わり、頼信の従者であった平忠常は降伏する。乱後、頼信の子頼義を平直方は婿取りをして義家が生まれた。鎌倉の館は直方から頼義へ譲られた。平直方は婿取りをして血の強化を図り、婿かしづきされた源頼義は関東への確乎とした基盤を手に入れた。この両者の思いが時を経て鎌倉に最初の軍事政権を樹立させた。
 このような婚姻関係を通じて所領を獲得することは、よくあることであった。岡崎義実も三浦氏から出て中村氏の入り婿となって所領を拡大した。しかし、思えば伊豆の小土豪の北条氏の婿取り、婿かしづきこそが直接的な軍事政権樹立に結びついたのであった。北条氏が行った源頼朝への婿取り、婿かしづきの手法は、永井路子が「源頼朝の世界」でみせた「乳母」という手法より、より有効な手段であった。北条氏に他の有力御家人が負けていったのも、この究極の政治的な手法の活用の問題であった、と思う。(2004/10/11)
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