書名 祖父・小金井良精
著者名 星新一
初出 1974年 河出書房新社
小金井良精は、葬式好きといわれたそうである。小金井家は越後長岡藩の150石の中級武士の出である。幕末、河井継之助に率いられた長岡藩は「武装中立」路線を官軍に許されず、結果賊軍として、明治維新を迎えることとなった。戊辰戦争では、最新式の軍備を以って奥羽列藩同盟に加担することとなり、長岡藩士とその家族とは戦乱の中を遠く会津まで落ち延びることを余儀なくされた。そこでは縁者親類の多くの無残な死を体験してきたのである。賊徒となって迎えた敗戦の後、「米百表」の小林虎三郎が人材育成に心掛けたとしても、明治の時代に立身出世することは多大なハンディキャップを負うこととなった。後の山本五十六が唯一の例外であろう。山本家は長岡藩の家老の系譜で、戊辰戦争で途絶えた家を他家から入って継いだのが五十六である。
郷里から東京に出てきた人々は、郷里の血縁・地縁を頼りに明治の開化の道を踏み出す。実力だけではなく、人脈なしにはましてや賊徒が居場所を築くことはできない。小金井良精も、わずかのつてを以って明治の世を生き延びたひとりであった。葬式は身近な人々の死を、そして生き残った人がそのかかわりを心に刻み付ける儀式である。葬式好きは、ここを大切にする小金井良精の心のあり方を示す姿を見ることができる。その中核となる家族の結びつきが今よりはるかに濃い時代を小金井良精の伝記から感じることができる。
なお、小金井良精の伝記を読んでいて共鳴するのはつまるところ敗北の地の系譜に属する人のはなしであるから、である。
小金井良精とは何者なのか。そして、著者、星新一とのかかわりはどこにあるのか。小金井良精は、はじめに述べたように長岡藩出身である。父小金井良達(よしみち;小笠原家の次男が養子に入る)と小林虎三郎の娘の幸(ゆき)の次男として生まれる。数え年11歳(満9歳)で戊辰戦争に巻きこまれる。身重の母と良精を含む3人の子供は峠を越えて会津に至る。会津藩の記録には「大小をさして子をおぶった女」と記されていた様である。収容小屋では、幸は余った握り飯を半分老武士に、残り半分を粥にして傷ついた若い武士に分けている。気のしっかりしたそして、優しい武士の妻の姿を見る思いがする。そして藩主一行(その中には夫良達も入る)を追って米沢へさらに雪の笹谷峠を越えて仙台へと逃避行を続ける。和議がなって灰燼に帰した長岡の町は7尺の雪の中に埋まっていたという。芋と大根のべた煮、湯漬け、ぞうすいが常食。それもさらに切り下げ、薄い粥をすすって日をすごす。次男であった良精は武家のならいによって、秋田家に養子に入る。13歳で上京し、信州松本の藩医の出であり、佐久間象山に学んだ小松彰の食客となって大学南校に通い始める。しかし2年で退学となり、小林虎三郎、雄七郎(母方の親族)の勧めで改めて大学東校(医学校)に入学する。たまたま東校の校長は同じ長岡出身の長谷川泰であった。病身の虎三郎は医・長谷川家には懇意であった。既に入学者は決まっていたが、こうして追加入学が決まり寄宿舎生活を送るようになる。養子先の養い親が亡くなることで、旧姓にもどる。16人の卒業生でトップの成績によりドイツ留学に赴くこととなった。世話になった小松一族の八千代と婚約の後、ドイツに留学、そして日本人で始めての解剖学の教員として東京大学医学部に勉めることとなった。八千代と結婚、死別。やがて同じドイツ留学生であった森林太郎の妹喜美子との結婚。このように87歳で亡くなるまでの一代記1300枚が延々と続く。生まれた者はやがて死んでいく。付き物の葬式に参加し、また同僚の死体解剖の立ち会う良精。
小金井良精は純粋日本人を標榜する時代にあって、アイヌ(良精はアイノとしている)、大陸からの移住、そして南方からの移住の人々の混血であると主張している。小金井良精が御前講演を行ったのは1927年6月のことである。「本邦先住民族の研究」が内容である。「本邦には先住民としてのアイノが住んでいた。そこへ西南部に日本人が渡来した。接触が始まる。不和や平和を重ねながら、そのあいだに混血が為され、その接触線がしだいに北へ進んでいった。」このような趣旨である。日本人は渡来したという論点を昭和天皇の前で講じたのである。彼は老年になって「古事記」を読み解き、渡来した人々には大陸系と南方系とあがるとみた。神話に中にはワニの話があり、南洋の人との関係を暗示している、豊玉比売は南方系の人だという研究を発表されなかったパンフレットに残している。こつこつと骨を集めて分析し、結論をだしていくドイツ風の手堅い学術研究から出た結論は、時代の風潮に関係ない。明治を賊徒として生きてきた人々からすれば、薩長政権が作り出した明治の社会・政治システムはまたいかほどのものでもなかったのであろう。
同居している小金井良精の母幸(小林虎三郎の妹)は長岡出身者の女性ばかりで例会を開くのを楽しみにしている。牧野未亡人(河井継之助の妹)など5名ばかりの小ぶりの集まり。長岡の戦いをつい昨日の様に語り合うのであった。人には人生の原点が存在する。「戦死はありませんでしたが、病気で三人なくなりました。こういうとしまで生きていますと、さかさまごとに会うのは当たり前だと思います。まあ、この40年ほどの、おそろしい世の中の変わりようを見ただけが、しあわせというものでございましょう」「おたがい、からだを大事にして、これだけのお仲間は、いつまでも集まりたいものですね」「だれが先でしょう」河井継之助の係累も、小林虎三郎の係累も等しく薩長藩閥が跋扈する明治の世では浮かぶ瀬もない。なぜ、生き続けるのか。会津藩の末裔、柴五郎のエピソードを思い出す。少年・柴五郎は極寒の斗南の地で父親に諭される。「会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と。旧長岡藩の出身者にとっても、薩長政権が終わることを願いながら、生き抜くことが生きる証である。このような心持が共有されていたのではないだろうか。
著者の星新一は小金井良精・喜美子の孫。次女せいと会津出身の星一とが結婚して生まれたのが星新一である。星一は12年のアメリカ生活の後、日本で製薬会社を始めた人物である。星製薬、星薬科大学などのその名前が残っている。後藤新平などに近いために、反対党が政権をとると集中的に事業が妨害にあう人生を送った。幼い時、母に手を引かれて会津に落ち延びた小金井良精の娘が会津出身者と結婚するのも因縁の妙である。こうして人類学者として功成りとげた小金井良精の波乱に満ちた人生を孫が見事に跡付けてくれたのは、幸せというものであろう。(2004/10/17)

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