書名 利根川と淀川
著者名 小出博
初出 1975年 中公新書
 一粒の雨が流れ出ていく筋もの川となり、それが集まって大河となる、というイメージにとらわれてはならないらしい。「利根川と淀川」を読んで、最初に思うことはこのことであった。副題に「東日本・西日本の歴史的展開」とあるように川がどのように歴史的展開をしてきたのか、それを解き明かしたのが、この本である。日本列島の海岸線や、河川の流域も現在のそれを前提としては歴史的な事象も違って捉えてしまうことは明らかだ。
 「古代史津々浦々」(小学館ライブラリー)は森浩一が北海道から九州までそれぞれの地域文化と考古学とを、先入観念なく示したものである。先入観念とは京都や奈良を中心として文化があるという文化史観である。その本のなかで、東国の古代文化を扱った箇所で、近畿と関東の交通路を比較した文章の中に「利根川と淀川」が引き合いに出されていた。ぜひ読みたいと思っていたが、絶版のうえに近くの図書館にもなく取り寄せてもらうのに1週間近くかかってしまった。なぜ、利根川と淀川を取り上げるかについて「開発の困難さが、利根川と淀川、関東平野と大阪平野の歴史の古さの違いとなって現れた、という見方が成り立つ」からだとしている。何が違うのか。
 私は関東に育ったので利根川を中心した読み方をしたい。利根川は江戸湾に注いでいたものを、江戸の町を水害から守るために、銚子にまで流れを変えた、と聞かされてきた。それはどうも小出博に言わせると作られた伝説ということになるらしい。
「“利根川の瀬換・東遷物語”は内容が複雑で、矛盾に満ちてわかりにくいから、はじめにあらましを述べておこう。この物語の主人公は徳川家康で、彼が1590年(天正18)江戸に入府し、関東一円を手中におさめたときから、利根川の流域を変えて常陸川に導き、銚子で鹿島灘に落す今日の利根川構想を描き、背後に伊奈備前守忠次があってその現実に踏みだす、という筋書きになっている。」実際は、洪水対策の治水ではなく、利水それも新田開発よりも水運の便を優先させた政策の結果して瀬換が行われ、利根川が東遷したと分析する。鉄道が全国に敷設される以前の物流は水運が重要であった。街道よりも水運である。陸送とでは物資の輸送量が桁違いに違う。鉄道からトラック、航空機の物流に取って代わられた現在、この水運を実感することは難しい。
 利根川をはじめとする関東平野を形作った多くの河川は、止まることもなく幾たびも流れを変え、いく筋もの分流をつくって流れていたようだ。どれが本筋の流れかも特定できないほど時代時代ごと、洪水ごとに元の川筋に三日月湖や沼沢をつくってきた。さらには縄文海進の名残である見沼などが関東平野に横たわり、人々の居住と往来を妨げてきたのは江戸時代になっても同様であった。その途切れ途切れにあるヨシ、アシの茂る湖沼や、水運には不安定な水量の河川が、開発を遅らせた元凶であると小出博は考えている。だんだん、謎解きが明らかになってきた雰囲気である。
 江戸時代に利根川の瀬換をおこなったのはほとんどが旧河川の再利用である。大規模土木として容易な方法である。ただし、いくつかは必要に迫られて旧河川跡を使わずに行ったところもある。「利根川開発の総仕上げとして、その心臓部ともいうべき重要な工事」と小出博が評価する赤堀川である。掘った土が関東ローム層で赤いから赤堀川という名称となった。利根川の幹川が1654年(承応3)の通水によって赤堀川から常陸川へと東遷したという見解を小出博は批判して「ところが江戸幕府には、上利根川の洪水防御の目的で利根川を東遷する考えは全くなく、利根川の『幹川』を銚子に落す構想など、新川開通削当初はむろん、江戸時代を通じて、もっていなかったのである。その証拠に、赤堀川の通水後、幅10(約18メートル)のまま拡大しようとしなかった。」川幅が拡大するのは昭和になってからである。特に1947年(昭和22)のカスリン台風後は1000メートルほどの川幅となっている。
 赤堀川はどこにあるのか。利根川沿いに栗橋という町がある。1894年(明治27)の測量図がある。利根川は権現堂川と赤堀川に分流する。赤堀川は、取水口は広いがやがて非常に狭い川幅(1883年でも80から100メートル)となり、これでは洪水対策の流れとしては機能しない。権現堂川から江戸川に流れる水量を優先し、赤堀川から常陸川経由で銚子にいたる川筋は水運維持のための水量を確保する目的以外には考えらないと小出博は主張する。
 銚子にいたる利根川が幹川になるのは明治以降だという。それも渡良瀬川鉱毒が東京に波及しないための方策だと分析する。これは需要な指摘である。
 「明治20年代の後半から30年代の前半は、足尾銅山鉱毒事件が起こって、全国民の目が渡良瀬川にそそがれた時期である。そして鉱毒は江戸川下流や下利根川にも、余波として広がりつつあった。明治政府は鉱毒水が江戸川を下り、東京府下に氾濫することを恐れ、(権現堂川が江戸川と逆川とに分流する)棒出しを強化しながら渡良瀬川河口(利根川への合流部)を拡幅して、利根川の水が逆流しやすいようにしたのである。そして、幕末から明治初年にかけて、江戸川を利根本川とし、これに洪水主流を排疎すべきであるという大方の識者の見解を無視し、明治政府は中下流利根川を主流として銚子に落す東遷物語を完結する。」
 足尾銅山鉱毒事件では1902年(明治34)、田中正三が明治天皇に直訴状を出した事件が知られている。その直訴状は幸徳秋水が書いたものであることは知られているが、そこには鉱毒水の東京府下への氾濫までは触れられていない。思いもよらなかったことであろう。直訴状にはもちろん触れられていないが、しかし明治政府の官僚はこれを知っていたのだ。明治政府が利根川東遷物語を意図的に作成した。大河は作られた。
 歴史は疑ってかからねばならないと、改めて思う。歴史は偽造されるのだ。(2004/10/24)
楽書快評
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