書名 十三夜
著者名 樋口一葉
初出  1895年12月 文芸倶楽部 
 「十三夜」を樋口一葉はこのように描いている。主人公関の母の言葉。「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に団子をこしらへてお月様にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも−−」と庶民の習慣を庶民自身が「旧弊」と思いつつ生活のリズムとしている。旧暦9月13日を後の名月として、日本では旧暦8月15日の月と同じく「十三夜」を愛でた。栗名月、豆名月ともよばれ、中秋の芋名月に比されていた。このような旧弊を打破する文明開化の世と明治は感じられていた。この勢いに乗って高級官僚となった原田某に、嫁いた斉藤関。玉の輿に乗って有頂天となっていた関も、子どもが生まれた頃からの夫の「物言ふは用事のある時慳貪に申つけれるばかり」への変化に不満を募らせるようになる。
 夫の態度に離縁を心に決めて、実家に戻ってきた「十三夜」の様子が描かれる。妻の「不器用不作法を御並べなされ」「教育のない身と御蔑になさる」夫に耐え切れなくなって、子どもも置いて実家に逃げ帰った関。「私はくら闇の谷に突き落とされたように暖かい日の影といふを見た事が御座いませぬ」と父母に掻き口説き、離縁状を取ってきて、と迫るのであった。これに同調する母。しかし、父は「一端の怒りに百年の運を取りはづして、人には笑はれものとなり、−−斯く形よく生れたる身の不幸、不相応の縁につながれて幾らの苦労をさする事と哀れさの増れども、−−表面には見えねども世間の奥様というふ人達の何れも面白くをかしき中ばかりは有るまじ、身一つと思えば恨みも出る、何の是が世の勤めなり、殊には是れほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理−−同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、」と諌めるのであった。
 実家に帰って愚痴もいい、慰められもして関は「今宵限り関はなくなつて魂一つが彼の子の身を守るのと思ひますれば良人のつらく当る位百年も辛棒出来さうな事、よく御言葉も合点が行きました」と原田の元に、さやかな月に照らされて帰ることとなった。
 帰る道、関にはもう一つのドラマが用意されていた。たまたま乗った車引きが子どもの頃にあこがれた煙草屋の高坂録之助であった。高坂録之助は関が玉の輿に乗った頃から、身を持ちくずし、放蕩の限りを尽くして車引きとなっていた。この話を聞いて関は「あきらめて仕舞うと心を定めて、今の原田へ嫁入りの事には成つたれど、其際までも涙がこぼれて忘れかねた人、私が思ふほどは此人も思ふて、夫れ故の身の破滅かも知れぬ物を」と秘かに心ときめかすのであった。樋口一葉は常識人である。玉の輿に乗った若い女性が子どもが生れた後に、ちやほやされなくなったからといって、そうやすやすと自分のほうから離縁を申し出ることにはならない。苦労人であろう父親の情を含んだ説得は、関にとってはありがたい話である。愚痴を聞いてもらえば、それで帰っていくのである。ましてや、帰りの人力車が初恋の人という、めぐり合いが用意されていた。関は心も弾んでの帰宅である。樋口一葉は「(録之助の住む)村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し。」と結んだ。どこにも憂きことがあるのだと、関が改めて思う心は玉の輿にしがみ付いて人生を送るという気持ちでもある。24歳の作家としては、老成しすぎた人生感である。
 1872年(明治5)生れの樋口奈津が一葉として、1894年(明治27)「たけくらべ」を「文学界」12月号に連載し、「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」を発表したのは1895年(明治28)から次の年までの14ヶ月。1896年(明治29)11月には、24歳の若さで肺結核のために他界する。早すぎる死である。
 永井龍男は「一葉といふ名は若し十三夜」と歌っている。24歳で短い生涯を閉じた樋口一葉を、澄み切った十三夜の月に見たのであろう。「たけくらべ」を読んだ森鴎外が「此の人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」といい、幸田露伴が「大方の作家や批評家に抜倚上達の霊符として呑ませたきものなり」(1896年4月「文芸倶楽部」)と激賞したのは、心のあやを解き明かし小説に現われた人物像をくっきりと描くことができた才覚とともに、人物造詣を支える着眼点を褒めたことであろう。「たけくらべ」は作り花の水仙への「懐かしき思ひ」でしめくくられている。懐かしさに思いを封じ込めて、美登利も信如も定められた人生をしたたかに生きることが暗示されている。
 厳しく移り変わる明治の世の現実をたっぷりと抱え込んでなお、社会批判ではなく、社会の中にもぐりこもうとする姿勢が見えてくる。そこが、樋口一葉である。(2004/10/26 旧暦9月13日)
楽書快評
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