書名 青銅の神の足跡
著者名 谷川健一
初出 1979年 集英社
圧倒的な存在感を持った本である。日本の津々浦々から汲めども尽きぬ伝承を発掘し、谷川健一はそれを農耕ではなく金属を鍵としてまとめ上げた。古代史を読むと私はいつの間にか夢の中にいるような感じに襲われるが、「青銅の神の足跡」は夢の深さがふかい。個人的には関東に生まれ育ったものとして、平安時代にはこの地にも野たたらも広がったが、それも一時で、やはり金属といえば中国地方を中心とする西日本がフィールドとなるのが、不満である。
岐阜の垂井にある南宮大社(中山金彦神社)が始まりであった。宇都宮敢宮司の伊吹おろしの方向にたたらを向けておくと踏まなくてよい、という話である。「それはさりげない雑談のひとこまにすぎなかったとはいえ、私の目の前をさえぎっていた幕がするどい刃物できりさかれ、予期しない光景が幕のかなたに姿をあらわしたように感じた。<なるほど伊吹山の風が『事件』の鍵だったのか>私はひとりうなずいた。」求める人にはこのような幸せな瞬間が来るのだ。うらやましい。
関が原(不破の関)まわりで関心のあるところを引き抜いてみたい。さて、関が原を吹き抜ける風は伊吹山から寄せてくる。伊吹山には伊吹の弥三郎という鉄人の伝承が伝わっているという。全身が鉄で覆われているが一箇所だけ普通の人間と同じ肉身であるため、そこを狙われて殺される話で、各地にあるとのこと。鍛冶神である。これは平将門伝説と同じである。将門伝説では、藤原秀郷に鉄人将門は一箇所の弱点・額を狙われて殺される。将門の領地はおぼれ谷が多く、従って牧があり、また野たたらが行われていた。
伊吹山である。ヤマトタケルは伊吹山の神(巨大な白い猪、あるいは大蛇)を侮り、氷雨に悩まされて下山する。ふらふらになって麓にたどり着いた場所が関が原町玉(玉倉部)と思われる。今でも鍾乳洞から清水が湧き出している。ヤマトタケルはこの清水で一息入れて、伊勢方面に旅たつ(清水を飲んだ場所は、滋賀県米原市の醒ヶ井ともいわれている)。ここから当芸野(たぎの)をとおり、伊勢国桑名郡尾津をへて能煩野(のぼの)にいたる。能煩野にいたるまえに「古事記」では三重をとおる。「三重村に到りしし時、また詔りたまひしく、『吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり』とのりたまひき。故、其地を号して三重と謂ふ」(古事記)。この、三重の地を谷川健一は四日市市の水沢(すいさわ)説をとりあげる。渡来系の金属神・天目一箇命の後裔である芦田首が住んだ芦田郷である。この地から自然水銀が取れる。水銀中毒は腎臓が冒され足が腫れる。この金属採掘・精錬に携わる人々の伝承がヤマトタケルの「三重」伝説につながるというのだ。谷川健一が解き明かす古代のミステリーは悲しい色をしている。
もうひとつは、672年の壬申の乱である。古代社会最大の内乱である。クーデターを言葉の原義である宮廷革命として捉えるなら、壬申の乱は大海人皇子によるクーデターである。なぜ大海人皇子は古京(奈良)を直進して大津京を攻めなかったのか。わざわざ東国に迂回して関が原から攻め上がった。そしてこのことにより、大友皇子の大津政権が容易に敗北し、実力で勝利をえた大海人皇子は歴史上始めて神と呼ばれるようになる。その理由として東国(美濃、尾張)に強固な地盤を持っていたからであるとされている。だが、その実態は不明なことが多い。大海人皇子の湯沐邑(とうもくゆう)が美濃安八(あはち)郡にあった。この長官は湯沐令(ゆのうながし)といい多臣品治(おおのおみのほむじ)である。太安万侶の父親である。伊福部、多氏、額田部など鍛冶氏族に湯人や湯坐の名がつけられているのは、「貴人の子供が銅や鉄のようにつよく育つことの願いをこめた」からだ、と谷川健一は考えている。不破の関に近い美濃郡家に大海人皇子がいたときに、2万の大軍を率いて参加した小子部連金且鉤(さひち=すき、かぎ・はり)は、多氏と同族である。また、天武天皇が死んだとき第1番にしのびごとをたてまつったのは大海宿禰荒蒲(おおあまのすくねあらかま)である。大海人皇子の乳母は大海氏である。荒蒲は大海氏の族長であったのであろう。谷川健一はこの荒蒲が701年(大宝元)には冶金のために陸奥に派遣された事実から、彼も海人という側面だけではなく鉱山の採掘技術者でもあったことを示す。このように、金属は農耕に役立つだけではなく、軍備には欠かせないものであった。
そして、青墓である。垂井町の東隣赤坂町に青墓がある。東山道の宿で平安末期から鎌倉期にかけて傀儡子や遊女のいた宿。青墓にある粉糠古墳は遊女の使ったおしろいの粉を捨てた場所が山となったところとの伝承がある。今、古墳の上は墓地となっている。墓の上に墓が立っている。古墳に眠っている人はさぞ重いことであろう。後白河上皇は青墓の遊女の乙前に今様を習い「梁塵秘抄」を集成した。ここには照手姫、小栗判官伝説にまつわる「照手姫水汲み井戸」の遺跡などもあり、往時の賑わいの様子が窺える。また、源義朝は平治の乱で破れ、子の義平、朝長とともに、青墓まで逃れ来た。ここで、重傷の朝長を義朝は手に掛けた。ひとり生き残り、伊豆に流された頼朝はやがて平氏を滅ぼす。芭蕉は野ざらし紀行の途次、次男朝長を手に掛けなくてはならなかった義朝の心を思って、「義朝の心に似たり秋の風」と詠んだ。芭蕉も伊吹山からの強い風にあおられたのであろう。朝長の墓が山の中にあり、謡曲「朝長」が生まれた地である。さらに、鎌倉に落ち延びようとして赤坂から舟で尾張の野間に至った義朝も、頼った長田忠致(家臣・鎌田正清の義父)に謀られ湯殿にて襲われ殺害された。この時「我木太刀一つあらば討たれはせん」と悔やんだと伝えられる。武士という殺人者集団の頭領であれば、油断と言われてもしかたがない。
美濃の南宮大社のほかに信濃の諏訪神社、伊賀の敢国神社をも南宮神社という。先の「梁塵秘抄」に「青墓の遊女の伝える歌詞か」として「南宮の本山は、信濃の国とぞうけたばる、さぞもうす。美濃の国には中の宮、伊賀の国にはおさなき、児の宮」があることを谷川健一は紹介する。諏訪神社には青塚があり多氏の同族金指氏が、尾張丹羽郡の青塚には丹羽君が、美濃の青墓には多臣品治が、そして敢国神社のある伊賀には青墓があり、多臣品治との関連がある多氏同族の舟木直が住んでいる。青はオオ、多氏との関連が濃厚であると谷川健一は考えている。諏訪下社わきには諏訪第一の古墳「青塚」がある。美濃の青墓には粉糠山古墳、昼飯(ひるい)には美濃第一の大塚古墳、そして伊賀最大の古墳御墓山は敢国神社からわずか1kmであるなど共通点が多く、いずれも多氏系列の氏族の墓ではないかと推測している。南宮大社から始まった谷川健一の「青銅の神の足跡」の読みは、再び南宮大社に戻って終わりとしたい。(2004/11/1)

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