
書名 江戸はこうして造られた
著者名 鈴木理生
初出 1991年 筑摩書房「幻の江戸百年」を改題
江戸はこうして造られたとは、そのままの表題である。しかし、なかなかに面白い。徳川幕府によって江戸が都市化したことは紛れもない事実である。では、どのようにして作られたのかは、知らない人がほとんどであろう。すでに「淀川と利根川」で身近な歴史を見る場合も、住んでいる環境が時代時代によって大きく変わっていることを抜きにすることができないことを、思い知らされた。今度は江戸(東京)の風景を「江戸はこうして造られた」を読んで、全く違う原風景をダブって見られるようになった。原風景といっても、徳川幕府が江戸をいじくりまわす以前の風景である。
利根川などの大規模な河川は人のコントロールが利きにくいため、定住開発は近世になるまで困難であった。江戸も入間川(隅田川)河口ではなく、その側の小規模河川沿いに発展してきた。日比谷入江の奥に江戸城が作られた。日比谷入江と隅田川河口の江戸湊を隔てる半島が江戸前島である。この本を読み始める前に、日比谷入江という言葉を知っていた。小石川と上平川の下流を平川といい、この川が日比谷入江に注いでいた。
源頼朝が挙兵した当時、この江戸を押さえていたのは江戸氏である。畠山氏、川越氏などとともに秩父流平氏であり、彼の居城は皇居東御苑(旧江戸城本丸)にあった。海運を握っていた江戸氏は「坂東八カ国の大福長者」と呼ばれ、宗家筋の畠山氏に組みして反源頼朝陣営にいた。房総に逃れた頼朝は三浦氏、千葉氏、上総介氏など3万の軍勢で鎌倉を目指した。道に立ちはだかる江戸氏を尊重し、武蔵国の在庁職に任じることによって、頼朝は降伏させる。こうして、鎌倉への道がひらけた。
著者鈴木理生は江戸氏を一般的な坂東武者ではなく,商人的集団「大福長者」として捉えている。東京23区に広げた支族はいわば商人の支店であり、利根川流域と他の地域とのあいだに立つ「いちば」の運営を担う専門職集団と江戸氏をみなしている。「江戸はこうして造られた」の特徴の一つは、この「いちば」という物流の観点である。江戸氏は鎌倉幕府創建時に敵対したことが祟って、財力はあっても有力御家人とはならなかった。時代が変わって、次の江戸の支配者は道灌で有名な太田氏である。太田氏は関東御家人の出身ではない。丹波から移ってきた上杉氏の執事の家系に属する。時代は室町である。足利成氏が下総国古河に拠点を設けて鎌倉公方と敵対する。鎌倉公方の太田氏は父道真が荒川中流の岩槻に、道灌(資長)がその河口付近の江戸に城を設けて対峙した。鈴木理生は、太田道灌は江戸に移る前は、目黒川河口の品川湊の御殿山にいた。鈴木道胤(紀州出身)の日蓮宗の品川から、禅宗である円覚寺領の江戸に移り住み、円覚寺の傭兵隊長の役割を担った、と考えている。この本の中で紹介されている詩文によると(万里集九;1476年)「江戸前島周辺には大小の商船や魚船が群がり、江戸湊は『日々市をなす』。この湊に集散する物資について『房の米、常の茶、信の銅、越の竹箭、相の旗旌騎卒、泉の珠犀異香より塩魚、漆し、杷茜、筋膠、薬餌』などないものはないほど多種多様な物資が集散している」。このなかで越の竹箭、相の旗旌騎卒は傭兵ではないかと分析している。房総の米、常陸の茶、信濃の銅などともに、泉は和泉(現在の大阪府)なのかそれとも、中国の泉州なのか、とも想いを馳せている。江戸湊から泉州に輸出したものは硫黄、日本刀(足利幕府が日本刀を作って輸出したことは有名である。その製造工場の一つは発祥の地足利であった。)、信濃の銅さらに越後、相模の傭兵ではなかったかと推測している。国際貿易港としての太田氏支配下の江戸湊が浮かび上がってくる。しかしこのような太田氏も、後には伊勢から渡ってきたとも言われる後北条氏に飲み込まれてしまう。鎌倉から小田原に関東の拠点が移り、江戸湊も寒村のような風景に変わっていった。本書の主題から逸れてしまうが、いちばを押さえ「坂東八カ国の大福長者」と呼ばれた江戸氏やその庶流が、そして、後に栄えた太田氏がどうして楠氏や赤松、名和氏のように悪党化しなかったのか、ふと疑問に思う。
寒村化した風景を変えたのは徳川幕府である。武蔵野台地の最先端に作られた江戸城に入るには、四谷―国府方(麹町)−松原―紅葉山―江戸上宿という国府路(後の甲州街道)という台地上の幹線しか8000人の甲州派遣軍団の通れる道はなかった。徳川幕府の江戸入城の後の話に向かう前に、「江戸はこうして造られた」の観点の一つ、江戸前島について見てみたい。鈴木理生はわざわざ「円覚寺領江戸前島」という章を設けている。
江戸前島という地名はほとんど見られないという。それは、江戸前島を支配していた円覚寺から、徳川氏が搾奪したからだ。儒教を重んじ法治主義の徳川幕府は、これを隠すために言論統制を行って地誌から江戸前島を消し去ったのだと、力説する。この消えてしまった江戸前島を探すことが、この本の底流にある。1261年(弘長元)には平重長―関興寺に属しあるいは葛西清重の所領であった。円覚寺が北条時宗によって蒙古襲来後に建立されたのは1282年(弘安5)である。円覚寺文書に寄れば、徳川家康が入府した1590年(天正8)までの276年間は円覚寺領であった。この間、関東の覇者は円覚寺への寺領安堵状を出している。それは「いちば」の立つところは、神社仏閣による政治勢力からの中立性が重んじられてきたからである、とみなしている。
平川の流れが注ぐ日比谷入江は江戸城本丸下まで入りこんでいた。本郷台地から海に落ちる半島が江戸前島と呼ばれ、日比谷入江と隅田川河口の江戸湊とを分けていた。現在の地名で言うと、西側が大手町・丸の内・有楽町・内幸町で東側が日本橋・京橋・銀座の範囲の半島である。先は汐留が岬である。入府した徳川氏が始めて行った大規模土木は、この江戸前島の付け根を切り割して道三堀を掘る事であった。これは戦国末期に、東国最大の製塩産地であった行徳と江戸とを結ぶ沿海運河の建設の意味合いを持つと分析する(ちなみに製塩立地は気象条件より燃料確保の有無である。行徳は利根川流域から船運による燃料の確保が容易であった)。次に急激に増えた人口に対する飲料水の確保が急務であった。江戸城周りの小河川をせき止めて、千鳥が淵、牛が淵の飲料水用ダムを確保した。淵は上流の水をせき止めた水面、池は海からの汐水をせき止めてできた水面、と鈴木理生は註を入れている。1606年(慶長11)年に出来上がった第1次天下普請(幕府の命により諸大名を動員して普請工事を行う)は神田山を掘り崩した土で日比谷入江を埋め立て、代替として江戸前島の峰の部分に外濠を掘る土木工事が中心であった。この埋め立てを建策したのはオランダ人のヤン・ヨーステンといわれ、彼の屋敷のあったことから八代河洲、それが明治になって八重洲となって今日まで伝わっている。日比谷入江は埋め立てられた後、大名藩邸地帯となった。明治政府はこれを接収して官庁・兵営に転用、1890年(明治23)に三菱に払い下げられ、現在のビジネス街を形成する。第2次天下普請では江戸前島の東岸(江戸湊側)に10本の舟入堀と八丁堀を建設。港湾設備の整備である。最後の天下普請は1620年(元和)平川、小石川、神田川などの洪水から江戸城を守るために、これらの河川を横断する水路を作り、隅田川に放流するものであった。そのため、本郷台地を断ち割り、駿河台が出来上がり、掘りわった土砂で柳原土手を築いた。
江戸時代には、天下普請や沿岸海運のみならず河川を改修、瀬替して河川の船運を活発にすることが、行われた。大消費都市江戸を支えるには物流の整備は必須である。このような視点から、さらに鈴木理生は論述する。あとがきで「江戸はこのように造られた」を書く視点を述べた。それは「1989年の秋から始まった東欧諸国の『市場原理』の再発見を機会に、日本でも『市場原理』のあり方に興味と関心が起り出しました。そんな状況を横目に見ながら、四世紀前の天下普請というシステムが列島規模の海運網の発展をうながし、単一市場圏を形成していった一断面を描くこと」であった。この前半部分に焦点を当ててみてきたが、幻の江戸前島や、ビル街の底に潜む日比谷入江が目に浮かぶようである。ちなみに千代田線西日暮里―湯島間は旧石神井川の谷底、その延長線上にある日比谷入江東岸の海岸線は大手町―日比谷間。旧小石川の上には白山通り、地下の谷底には都営三田線。「このように都心部の地下鉄の路線の大部分は,江戸の原地形を“再現”する形になっている。」とのこと。地下鉄に乗る時は、原地形をなぞりながら、乗ってみたい。(2004/11/13)
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