楽書快評
書名 動物妖怪談
著者名 中村禎里
初出 20001220日 歴博ブックレット
 動物妖怪について楽しげに小理屈をひねるのが著者・中村禎里である。薀蓄である。このような作風を嫌いではない。少しも恐ろしくない。蛇・狐・狸へ妖怪が受け継がれ、時代が下るとともに、だんだんと怖さが少なくなってくる様子をえがきだしている。その中でも、興味が引かれたのが狐である。二匹の狐、天竺・震亘渡来の「玉藻の前」と安部清明の母「葛の葉」に心が魅かれていく。
玉藻稲荷神社(那須) 「玉藻の前」は9尾の狐である。源頼朝の挙兵の折、平家側にたった畠山氏を棟梁とする秩父流平氏に、居城衣笠城で攻め殺された三浦氏棟梁三浦大介義明が、玉藻の前の射殺に関わる。玉藻の前は15世紀にフレームができた物語では、天竺(インド)で斑足太子に千人の王の首を求め、震旦(中国)では周の幽王の后となって王の命を奪い、日本に渡ってきては下野国那須野に棲みつく。やがて1154(久壽元)、上京し鳥羽上皇の寵愛を一身に集めた。だが、上皇の健康が悪化すると、陰陽師安部泰成によってその原因が玉藻の前にあると喝破され、那須野に逃げ帰る。逃げ帰った玉藻の前を、三浦介、上総介が追手となり射殺する。玉藻の前の腹から仏舎利が、頭から白玉が、2尾からは赤白の針が出たといわれる。仏舎利は上皇に、白玉は三浦介に、針は上総介に、そしてそのうちの1本の白針は源頼朝に渡った。玉藻の前は、那須の玉藻稲荷神社に祀られている。小さな神社わきの鏡が池には座禅草も咲いている。座禅草(玉藻稲荷神社鏡が池)
 中村禎里は、次のように分析する。玉藻の前の伝承では上皇をだまして日本を混乱に陥れようとした妖狐という設定だが、中世では仏舎利は王権を象徴しているのだから伝承において権力的な基盤を強化できたのだ、と。また、北関東では狐信仰があり、東国武士が狐狩りで射殺したのは妖狐ではなく、狐神ではなかったかと推断している。征夷代将軍となった源頼朝が大規模な巻き狩りを行い、息子の実朝がこれを偲んで小手の上に霰の打たれた関東武士が勢ぞろいする様子を詠んだ那須の篠原には、玉藻の前の塚と玉藻の前神社とがある。ここには松尾芭蕉も「奥の細道」紀行で訪れている。草深い東国の狐狩と狐信仰とが仏教思想と宮廷を覆う疫病への恐れとが結びついて、玉藻の前伝説が作り出されていった。殺生石に身を変えて、いまも人々の心に残る玉藻の前。恐ろしさより、哀れさを感じる。
 他方、もう一匹の気になる狐は「葛の葉」である。葛の葉が残していった「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」は母子別れの切なさが伝わってくる。古浄瑠璃「しのだづま」にまとめられた伝説は安部清明の父・保名は葛の葉と信太の森で暮らしている。清明7歳のとき、保名の留守中に葛の葉は庭の籠の菊に見とれて、放心状態となって狐の姿に戻ったところを清明に見られてしまう。先の一首を残して信太の森に姿を消してしまう。安部清明親子は葛の葉を追って信太の森に入り、ひと時人間の姿に戻った葛の葉に抱かれた清明。泣き叫ぶ清明に「やれ幼きものよ、これが今生の別れかや」とつぶやきながら葛の葉は去っていくのであった。悲しさが迫ってくるは母子別れの普遍的な物語である。やがて清明は葛の葉の力によって当代随一の陰陽師となるのであった。
 折口信夫は「信太妻の話」(1929年 「三田評論」)で葛の葉狐の別れを次のように描いている。「やはり、我々の歴史以前の祖先は、物心つくかつかぬかの時分に、母に別れねばならなぬ訣があつたのである。」それはどんな訳なのか。結婚の一番古い形態を略奪婚と、折口信夫は考えている。フレイザーの考えを引用して「奪掠せられて異族の村に来た女が、きまつた数だけの子どもを生めば、村から遂ひだされる例を挙げて居る。『外婚』のなごりとして、『つま分かれ』の哀歌が限りなく発展して来た訣は此点から考へられさうである。」葛の葉は異族から奪われてきた妻の物語であるというのだ。同じような事例として「すさのをの命は亡母(即、妣)いざなみの命の居られる根の国に憧れて、妣が国に行きたいと泣いたとある。」もあげている。一番古い形の家族のあり方の哀歌が底流にあると述べる折口信夫の考え方は鋭い。同時に論証するために積み上げられた各地の言い伝えや記紀からの引用は、重たい感じを与える。人が生きていくことに伴う重たさである。暗い情感がある。これに比べると中村禎里は明るさがある。
 中村禎里は浄瑠璃となった葛の葉伝承の元は東国にあると分析する。中世末に常陸国筑波山麓を根拠にする中下級陰陽師の集団が安部清明伝説を形成したと述べている。狐神信仰の濃厚な北関東にあって、陰陽師が狐憑きと向き合う機会は少なくなかった。狐に憑いたり、狐を落したりと親和性があった。このような狐と陰陽師との不可分な関係が葛の葉伝説の源となったと掘り下げている。中村禎里はこの後、狸やその他の動物妖怪談を取り上げながら、中下級の陰陽師や流浪する加持祈祷者の群れを紹介する。正式な得度を得ずに諸国を徘徊する自称宗教者たちが不思議な奇跡と不思議な物語をばら撒いて歩く。動物妖怪談が各地に根付いていった。このほかにも八畳敷きの陰嚢をもつ狸たちや、大蛇に連れられて琵琶湖湖底にある竜宮に行った俵藤太の物語などたくさんの妖怪談が、歴博ブックレットの小冊子に詰め込まれている。どの分析、解説も楽しげな「小理屈」である。妖怪は人間の心に棲んでいるのであるから、動物たちはまぼろしである。人間に心がある限りまぼろしの動物を見続ける。まぼろしの動物を伝え歩く人たちも絶えない。時には「科学的」な言辞をもってまぼろしを伝える人たちも、現代でも出現する。
 生物学専攻の大学教授であってみれば、妖怪談は余技であるといえば、その通りであろう。著者紹介によると「1951年、単独講和条約・日米安保条約のストの首謀者の一人とされ(九州大学を)放学。当時全学連中央の武井昭夫氏や安東仁兵衛氏からは、ストをすればよいと思っている九大教養の山賊、と半分評価、半分顰蹙されていたらしい。2年間で4回もストをしたのだから、そう思われたのだろう。一時労働運動の調査機関に勤務。労働運動にむかないと悟り、1954年東京都立大学理学部に入学、生物学専攻。――」と記している。中村禎里も、動物妖怪談を広め歩いた在地の陰陽師、加持祈祷者、山伏、私度僧が現代に蘇った類に属していたのであろうか。(2004/12/5)
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