書名 石垣りん詩集
著者名 石垣りん
初出 1971年 思潮社
 台所では
 いつも正確に朝昼晩の用意がなされ
 用意のまえにはいつも幾たりかの
 あたたかい膝や手が並んでいた 
 ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
 どうして女がいそいそと炊事など
 繰り返せたろう?
 それはたゆみないいつくしみ
 無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
 炊事が奇しくも分けられた
 女の役目であったのは
 不幸なこととは思わない。
 そのために知識が、世間での地位が
 たちおくれたとしても
 おそくはない
 私たちの前にあるものは
 鍋とお釜と、燃える火と
 それらなつかしい器物の前で
 お芋や、肉を料理するように
 深い思いを込めて
 政治や経済や文学も勉強しよう
 それはおごりや栄達のためでなく
 全部が
 人間のために供せられるように
 全部が愛情の対象あって励むように
 詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」(1959年)に収められている同名の詩の後半部分である。石垣りんの詩は、このように人間がなまのままの姿で浮かび上がり、シンプルで誠実な想いが伝わってくる。性別による分業がどうした、というのだ。出世や栄達、金儲けのためにではない生き方は、お芋や肉を料理する同じ思いのなかに発する。石垣りんはこう語りかけてくる。このような姿勢の延長に「政治や経済や文学も勉強しよう」という言葉が戦後復興期には意欲として自然であったのだろう。
 「ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて どうして女がいそいそと炊事など 繰り返せたろう?」と歌った。それは美しい歌であった。「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」は美しすぎる詩であった。美しすぎるとは思いつつも、やはり心にしみるこの詩を評価しないわけにはいかない。
 だが、石垣りんは別の詩で家族の悲惨な状況も歌う。
 「去年祖父が死んで 残ったものはたたみ一畳の広さ それがこの狭い家には非常に有効だった。」(貧 乏)。
 「半身不随の父が 四度目の妻に甘えてくらす このやりきれない家 職のない弟と知能のおくれた義弟 が私と共に住む家。」(家)。
 「そこは傷んだ畳が12畳ばかり敷かれた 年老いた父母や弟たちが紙袋の口から さあ、明日もまた働 いてきてくれ と語りかける。」(月給袋)。
 これはまたすごい詩ではないか。傷んだ畳のように傷んでいる石垣りんの心が、生のままに描き出されている。現実をそのままということではない。石垣りんが抽出した現実である。その抽出がみごとである。食事を待ついくつかの手は、また痛んだ畳の上に座って給与袋を待つ手でもある。「無意識なまでに日常化した奉仕の姿」を石垣りんに求めるものであった。自発と強制とが生きること、死ぬことをめぐって同居している。
 石垣りんは1920年生まれ。高等小学校を卒業すると1934年、日本興業銀行に勤める。そして勤め続ける。「いずれにしても私は一日中働いているのであり、その立場で詩を書き進めてゆく以外、食べてゆくことも、書いてゆく手だてもないのが現実です。」(立場のある詩)と気持ちを述べている。石垣りんは一家を支えて生きてきた。
 職場でもたくさんの詩を書いてきたが、だんだんと自分自身の内にこもった書き方に移っていく。詩を共有する職場の雰囲気がなくなっていったのであろう。1968年、詩集「表札など」を上程する。第1詩集から約10年の歳月がたっていた。
 様も
 殿も
 付いてはならない、
 自分の住む所には
 自分の手で表札をかけるに限る。
 精神の在り場所も
 ハタから表札をかけられてはならない
 石垣りん
 それでよい。
 それでもまだ、石垣りんは家を支え続ける。「私の家は小さいのに暮らしが重い。 二本の足で支えているのに 屋根はだんだんずり落ちてくる。」第2次世界大戦の敗戦後のきびしい日本の生活がしっかりと詠まれている。いまでも「おごりや栄達」とは別の誠実な人生が残っている。だんだんずり落ちそうになりながらも、自分のプライドを表札にかけて生きている。石垣りんは生きていれば83歳になる。生きているのだろうか。「自分の手で表札をかけ」て、きっと生きている。
 2004年の現在、繁栄を続けてきた日本には不思議なことに「私の家は小さいのに暮らしが重い」という言葉がよみがえってきている。男も女も多くがおごりや栄達のために、生きてきたがためのツケであろうか。石垣りんは救いである。(2004/12/13)
楽書快評
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