
書名 壬申の乱(春日井シンポジウム第3回)
著者 森浩一、門脇禎二編
初出 1996年11月16日 大巧社
672年の壬申の乱は日本史上、画期的な事件である。武力を持って皇位を簒奪した大海人皇子は天照大神を奉じ、また律令国家をつくり、そして古事記や日本書紀など歴史を編纂する事業を始めた。さらには、初めて「神」と呼ばれた天皇でもあった。
愛知県春日井市という一地方公共団体が主催する歴史シンポジウムをまとめたのがこの本である。恐るべきは、地方の力である。幾人かの人から基調講演が行われ、貴重な示唆が示された。不破の関に関する発言と、国際情勢、鉄生産に関する箇所とが特に注目した。3点に絞って考えてみたい。
「古代の関
」に関する基調提起は、新井喜久夫がおこなっている。東海道の鈴鹿、東山道の不破、北陸道の愛発(あらち)の三関は、関は外からの敵に備える設備であるにもかかわらず、畿内に向けて作られていること。壬申の乱を契機として作られたことが大きく作用している。確かに、不破の関跡を見た限りでも、藤古川をはさんで不破の関は絶壁の上に京に向かって立てられていたと、容易に想像できる。このことを新井喜久夫は「大海人皇子は畿内を脱出して東国に向かいますが、これは畿内で近江朝廷に対抗するだけの武力を得ることが困難であるという事情があったからだと考えられます。事実、大海人皇子に呼応して蜂起した畿内の勢力というものは、それほど多くはなかったわけです。大海人皇子は、まずその支配下にあった美濃の安八摩郡の湯沐邑の民衆をはじめ美濃国の兵の動員に成功します。次いで尾張の兵、伊勢の兵、これらを中心に体制を整え、その結果、近江朝廷方に対して勝利を収めることができたのですから、その後の天武天皇をはじめとする政権にとっての課題は、いかに反乱者を畿外勢力と結合させないようにするかということであったわけです。とりわけ、自らが経験者であった天武天皇にとって、その思いは強かったと考えられます。」と的確に分析している。これは重要な提起である。
大海人皇子の舎人として壬申の乱に活躍した人物の多くが美濃出身者である。身毛君広(むけつのきみひろ)は関市、村国男依(むらくにのおより)は各務原市鵜沼地区。また大海人皇子に私邸を行宮として提供した尾張大隅は野上(軍資金の提供も行った)。大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら)が美濃の安八磨郡にあった。湯沐邑は皇后や皇太子に私的に与えられた土地である。名前からして産湯を思い出させる。しかし、湯沐邑は大海人皇子のしか見当たらず、実態は分からない。規模は2000戸。「壬申の乱の地名を歩く」で椎谷紀芳は「おおよそ大垣市と安八郡全域、養老郡、揖斐郡の一部にわたる地域」を想定している。なお、湯沐邑令は「古事記」の編集者太安万侶の父多品治(おおのほむらじ)である。
前半「大海人皇子の時代」のシンポジウムで直木孝次郎は世界情勢を押さえることの必要性を述べている。百済と高句麗を唐と結んで滅ぼした新羅は、天智天皇の9年に唐との戦争を始める。「そして天智10年の10月大海人皇子は近江朝廷を脱出して吉野へ行きます。その2ヵ月後の12月、天智天皇は近江大津宮で亡くなります。こういう情勢の中で、百済平定で進駐してきた唐軍の外交官の中から選ばれた日本通の郭務そう<りっしんべんに宗>(かくむそう)が、2000という衆を率いて大宰府に乗り込んできます。これが天智天皇が亡くなる直前、11月末のことです。−−−結局、郭務そうが大宰府にやってきてそのまま半年間居座り、672年5月の末に近江の朝廷は甲冑、弓矢は布、綿などの物資を与えて引き取ってもらいます。こうして5月30日、郭m務そうとその率いる大部隊が引き上げた3週間後の6月22日に壬申の乱が起こります。壬申の乱というものは、こうした国際情勢と無関係には考えられません。」
ここでは問題提起のみではあるが、壬申の乱がどのように国際情勢と関係したのか詳しく聞きたいところである。武具を渡したということは、対新羅戦争への協力を意味するのであろうか。(註)
「大海人皇子の時代」シンポジウムで、八賀晋は金生山の鉄に注目した発言をする。大海人皇子の湯沐邑は西美濃でも一番西端の美濃国安八磨郡にある。この一帯は東山道が通っているが、そこに金生山(きんしょうざん)がある。今は石灰石の産地となっているが、赤鉄鉱の鉱脈が露出していた。「地表面から3、40センチ掘りますと、幅が40メートル、高さが7、8メートル、長さが100メートル、200メートルにも及ぶような大鉱脈がありました。今はほとんどなくなくましたが、その部分の鉄が露頭で採れるといいますか、土をはずせば採れる。ーーー分析をしますと、鉄の含有量が非常に高く、60数パーセントという純度で、非常に品位の高い鉄です。」「『延喜式』の中には、兵器関係の役所の記載があります。そこに、いろいろなものをつくる雑工戸が仕事の場所の記載があります。12カ国記載がありますが、その中で意外と美濃が多いのです。大和、河内、摂津国を除きますと周辺では、美濃が一番多いところです。どうもそのようなことをみますと、湯沐邑と格好良く名前が出ていますが、おそらく皇太子等の直轄している武器庫みたいなもの、武器製造所といいましょうか、それがあって、おそらく大海人皇子が隠密でやらなければならなかった第1の仕事は、その武器庫を押さえにいくということだったのではないでしょうか。」
この意見を受けて森浩一は「弥生時代の銅鐸の原料は、自然銅という精度の高い純銅に近いものをかなり使っているということが、だんだんわかってきています。そういう意味で、鉄も非常に純度の高い美濃の鉄鉱石を、古墳時代に使っていても不思議ではないように思います。」門脇禎二は「大海人皇子の軍がまず美濃を目指していくのは、いわゆる湯沐邑の問題は前から指摘されているにしても、こういう武器製作の問題はやはり考古学の調査が進まないと我々も気がつかなかったところです。」と八賀晋の提案に賛意を表している。注目すべき意見である。動員される人々は農民である。持つものを鍬から武器に代えなければ、軍隊とはならない。地域の根ざした歴史が春日井市の試みのように一つ一つ掘り起こされることを切に願う。(2004/12/19)
註:「古代日本と朝鮮・中国」(講談社学術文庫 1988年9月)で直木孝次郎は1600名の遣唐使と白村江での敗戦の日本人捕虜とを送還し、新羅との困難な戦いの局面に立たされている唐軍が軍事同盟を求めて博多にやってきた、しかも壬申の乱直前の状況の為に大津政権との交渉が進まず、身代金を受け取って帰って行った出来事、と分析している。
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