
書名 幕末遠国奉行の日記
著者 小松重男
初出 1989年 中公新書
副題に「御庭番川村修就の生涯」とある。御庭番とは江戸時代に全国の情報を集めて幕府に報告することを主要な任務とする人たちである。諜報機関とでもいうのだろうか。始まりは八代様である。八代将軍徳川吉宗が紀州から引き連れてきた人々の中に御庭番という人々もいた。「内々御用」と「将軍身辺の警護」が任務である。当初は17家から始まった御庭番も22家となって幕末の動乱に対処しようとした。家禄は低いままであるが、役職に就けば千石の俸禄も可能である。有能だからといって、役職に就けるとは限らないのは、今日と同じである。幸いなことに特殊な家筋であるため婚姻も含めて同じ御庭番での共同性は強いように感じられた。主人公川村修就(ながたか)も能吏であるだけではなく、姉の嫁ぎ先である明楽家(あけら 同じ御庭番家筋)の当主明楽飛騨守は勝手方勘定奉行であり、この引きは大きい。人脈は血のつながりによって担保されていたのである。有能な御庭番家筋をつなげて行かなければ、いつまでたっても微禄に甘んじなければならない。それは、御庭番という諸国探索業務への伝承も22家の互いで濃密に受け継がれてきたと思われる。八代様ゆかりの人々は、御庭案家筋も含めて徳川幕府の創業以来の譜代からは、同じようには見られていなかったように感じられる。ましてや特別任務の家筋である。譜代からの警戒心は多大であっただろう。そこに、歴史への微妙な対応が見られる。
川村修就は1838年 天保9に御裏門切手番之頭(大奥の出入りを検める役人の監督)に抜擢されたのを契機に、水野忠邦の下に出世街道を上り詰める。これは水野忠邦が没落しても変わりはない。1840年 天保11には新潟港を巡っての抜け荷(非合法な外国貿易)調査に当たり、(当時、ここを領有していたのは牧野備前守長岡藩である。)成果を挙げた後、勘定吟味役に就いている。これも八代様が始めた役職で、川路聖謨も就いた職である。勘定奉行とともに幕府の財政支出には吟味役の捺印が必要なほど重い役職である。吟味役の次は新しく作られた新潟奉行への栄転である。先に抜け荷の摘発に功のあった川村修就が初代の新潟奉行となったのである。1829年 文政12に水野忠邦によって牧野藩から新潟を上知させたことに伴い、新潟を直轄地とし、遠国奉行を派遣することとなったのである。抜け荷問題を起した長岡藩は幕府の意向には逆らえなかった。幕府は対外防衛策を掲げながら、他方では日本海随一の港町・新潟の利権を得たのである。初代奉行として川村修就は在任9年間で様々な民政をおこなった。若いころから諜報任務につき、また、微禄から這い上がってきた、世上に詳しい民政家として歴史に残る施策を行っている。「敏腕奉行の施策と業績」の章で小松重男が紹介している具体例は次につながる一手を先に先にと行っている能吏・川村修就の本領発揮とも言えるものである。それは例えば、砂防対策に松を植林する事業である。総計3万6千14本の松を植えつけさせた。それは、今日でも残る事業である。また、物価統制の期を見るに敏な対応である。これに失敗すれば一揆・打ちこわしが待っている。修就の足掛け10年間で一度も騒動がなかったといわれている。このような敏腕振りが買われて、堺、大阪そして長崎奉行を歴任した。
圧巻はその後である。これだけでは幕末の能吏でしかない。たった200俵の家禄から始まった川村修就の人生も長崎奉行の在職中は職録千石プラス役料4400俵を得るまでに至った。しかし、役が解かれて見れば、自分の代で100俵を増やし300俵にしたに過ぎない。今にしてみれば当然のことである。だが当時は徳川幕府の時代である。家禄の高が武家という官僚社会の序列である。大阪西町奉行の折に新規で召抱えた野津卯之助に川村修就は、彼の実家が美濃国であることを踏まえ、長崎奉行の任を解かれて江戸に向う旅で、「もう江戸はだめになる。その方の郷里近くを通行いたすときに分かれよう。田畑を買い求めて帰農するがよい」と諭されたという。野津は言葉に従って大庄屋となって満足する生涯を送ったという。元手はもちろん長崎で勤務中に得た莫大な資産であろう。川村修就本人も拝領屋敷が薩長軍に接収されることを見越して、千住に町屋敷を購入している。仕舞には救急薬「五神錠」を販売し始めている。これは徳川幕府の秘薬「備急錠」ではないかと、著者小松重男は考えている。圧巻とはこのことである。与えられた職務をベストにこなしながら、なおかつその政治体制に絶望している川村修就がそこにいると思える。ここで一言言わせて貰えば、川村修就は御庭番家筋にこだわり過ぎたのではないか。勝海舟、川路聖謨、榎本武揚だれひとり譜代かどうかなどこだわってはいない。眼中になかったといえようか。
「『内憂』『外患』に対してなに一つなす術を知らなかった連中が、三河以来の・・・などと家柄ばかりを誇って、修就他の、途中入社組の御庭番家筋など実力派に身分格差を付け、いたずらに空威張りしたところに、せっかく薩長新政府も踏襲せざるを得なかったほど優秀な官僚組織をもちながら、みすみす覇権の命脈を延長させ得るチャンスを逃してしまった原因があるのである。」と小松重男は解説している。覇権の行方がどちらに傾いたほうがよかったかは、論議の分かれるところである。だが、覇権の行方は歴史の通りである。今後ともそんなものであろう。現在もその政治体制・社会システムに絶望しながらも、自分の職分にはベストを尽くす人たちがたくさんいることを疑わない。(2004/12/26)
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