
書名 将門記
著者 大岡昇平
初出 1965年1月 展望
「将門のように、関八州を征圧して、天位を僭称したものは、それまでには無論なかったし、その後にも現われなかった。」この一事をめぐって大岡昇平の関心がある。すでに天位を奪いあう歴史は、畿内のある一部の人たちにとっては特別なことではなかったであろう。武力を持って天位を争った叔父甥もいたし(壬申の乱)、廃位させられた天皇もいた(淳仁天皇)、はたまた下級貴族出の愛人を天皇にしようとした天皇も現われていた(称徳天皇)。しかし、天皇の末裔とはいえ無位無官の土豪が自らの才知と武力とで、天位を僭称したのは、大岡昇平が述べているようにただ一人である。為に、平将門は長く東国にあって民衆の英雄であった。
「武家に取っては、将門は決して悪逆非道の叛逆者ではなく、むしろ朝廷の全国支配に反抗して、関東を武家の根拠地とする構想を立てた、偉大な先駆者ということになるのである。」このような将門を「憎むべき謀叛人の位置に引きずり下ろしたのは」は水戸学や頼山陽そして明治政府の方針によるものであると語る。
軍事貴族の末裔がたくさん東国に土着した中で、平将門が稀代の英雄となっていった理由はどこにあるのだろうか。国衙に影響力を持つ常総平氏という親族との争いにおいて自力で領地を維持する才覚は、軍事的な成功によって保証されていた。個人的な武勇のみならず、軍事的に組織を支える俘囚の存在や「私の君」である摂政藤原忠平による中央政治での庇護も大岡昇平は考えている。親族間の争いから国衙襲撃へと一線を越えて平将門は謀叛人となる。ここを大岡昇平は「これら幾世代にわたって国衙に収奪されていた農民の不満の爆発であった。天慶の乱が将門、純友の個人的武勇と叛逆心によって企てられたものであるとしても、それは民衆に蓄積された不満のエネルギーがなくては、顕われ得ないものであった。」と背景を描いている。
こうして八幡神と菅原道真の霊の力を借りて「新皇」として即位し、東国独立国家を樹立する。だが、独立国家は畿内の国家の模倣であり、農民のエネルギーや在地の国衙下級官吏の意向に沿うものを含むことがで
きなかったが為に、急速に没落する。わずか2ヶ月の独立国家であった。これを覆したのは東国の土豪たちである。下野押領使藤原秀郷が登場する。かれも916年 延喜16 一族16名とともに伊豆へ流されている。将門と同様に自らの力を頼んで勢力を張る土豪であったと、たやすく推測できる。藤原秀郷は朝廷によって出された「殊功の輩には、不次の賞を加える」という官符に応じた挙兵である。国香の嫡男で後に桓武平氏の嫡流を作ることとなる貞盛とともに、将門を襲う。二人の兵力は4000名。下総国豊田郷の本拠に平将門側は1000名の兵力しかなかったという。藤原秀郷たちと下野下総の国境で一戦して敗北、猿島の北山に陣を張る。2週間弱の時間的余裕があったにもかかわらず、援軍は集まらなかった。「2月1日から13日まで、かなり期間がある。これまでのいきさつからいって、武蔵の武芝が出兵しそうなものであるが、それがついに来なかった。」と大岡昇平は言及している。在地の勢力は平将門を見限ったのであろう。眉間に矢を受けて陣没した平将門を「将門記」の作者は「天下ニ未ダ将軍自ラ戦ヒ自ラ死スルコトアラズ」と武勇をたたえた。
乱後、東国の武士は畿内の朝廷・摂関家の郎党となって勢力を拡大する道を踏むこととなる。藤原秀郷はその功によって、正四位下鎮守府将軍となり、平貞盛は従五位下となる。また、武蔵武芝に追われて京に逃げ帰った源経基はいち早く平将門の謀叛を告げた功により従五位下・大宰権少弐に任ぜられ、純友への追捕使次官となる。彼らは、また彼らの子孫は摂関家あるいは院にさぶろう者となることで、再び武力が決定的な解決策となる時代まで走狗のように働き(安和の変では経基の子満仲が摂関家のために左大臣源高明らを密告。これに連座した秀郷の子藤原千晴ら流配)、やがて権力を手に入れる道を選んだ。平貞盛の子孫と源経基の子孫が相争い、武家政権を樹立したが、それは朝廷に征夷大将軍を拝命する二重権力でしかなかった(源頼朝が幕府を開くまで将門が敗死してからそれでも250年の歳月がかかる)。ここが、自ら新皇となって東国独立国家を樹立した平将門とは決定的に相違するスタイルである。大岡昇平は平将門のこのスタイルにのみ関心がある。
大岡昇平はこの一代の英雄を、次のようにまとめる。「『将門記』の英雄像も物神的な天皇崇拝と祈祷仏教的観念によってゆがめられている。幸い時代はそれら既存の権威が動揺した時期であった。関東の辺境に育ったこの半ば武士半ば農業主には、優雅な朝廷からは野人として軽蔑されながら、古代的な素朴さを持っていたようである。」皇軍に徴兵されて辛い体験を経てきた大岡昇平が、平将門を見る目には、買いかぶりの気味があるかもしれない。だが、将門を英雄として継承してきた東国の人々の心は汲まれていると思う。もっとも大岡昇平は新たな英雄譚を創りはしなかったが。(2005/1/16)
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