書名 画家の後裔
著者 青木繁 福田蘭道 石橋エータロー
初出 1979年 講談社文庫
 天才画家の青木繁、「笛吹童子」のテーマ音楽(シャラーリ、シャラリーコ)作曲家で名を馳せた福田蘭道、そしてクレージー・キャッツのメンバーでもあった石橋エータローは直系である。この三代の人々を見ていて感じるのは母系である。特に、青木繁の妻であった福田たねの存在である。
 1899年、青木繁は17歳で画家を志して、藤村詩集を懐に、久留米から親の反対を押し切って上京。小山正太郎の主宰する不同舎に入門。この不同舎で栃木県から画家を目指して上京した福田たねと知り合う。1904年には坂本繁二郎や福田たね達と房州布良に滞在。国の重要文化財となっている「海の幸」を制作。第9回白馬会展に出品されるや、注目を浴びることとなった。漁で得た大きな魚を担いで、組んで歩く人々の姿は圧倒的な存在感を与えている。人々はこの群像に、日露戦争に赴く兵士の姿を重ねていたかもしれない。その中でこちら側に向いたひとりの顔。見開かれた目が、意思的である。跡から書き換えられた福田たねの顔である。
 私たちは福田たねを今でも見ることができる。1882年生まれの青木繁が「古事記」に題材をとって、23歳の時に描いた「大穴牟知命」(オオナムチ)に描かれた二人の女性のひとりである。ウムギヒメとして描かれた彼女の大きく開かれた目が特徴である。大穴牟知命は大国主命ともいい国津神、在地の神である。大穴牟知命が兄弟に欺かれ、焼かれた石に引かれて死んだとき、母神である刺国若比売(サスクニワカヒメ)の願いによって、天上の神産巣日之命(かみむすびのみこと)が使わしたのがガイヒメとウムギヒメである。ガイヒメは赤貝の姫、ウムギは蛤の姫であり、ガイヒメが貝殻を削って粉にし、それをウムギヒメが蛤の汁で溶いて大穴牟知命の体に塗ると、火傷が癒えた説話である。貝殻の粉を水で溶いて火傷に塗る、あるいは母が子どもの傷に乳汁や唾を塗る療法がある。ウムギヒメの片方の乳が露にされているのは、乳汁で溶くことを示している。母性への信愛がうかがえる。当時、福田たねは福田幸彦(蘭道)を産んだばかりであった。続いて24歳になった青木繁は再び福田たねを描く。「女の顔」である。しかし、白馬会の事前出品審査ではねられる。この後、画壇で認められることはなかった。
 1907年、25歳、東京勧業博覧会に「わだつみのいろこの宮」を出品。期待に反して三等賞末席であった。海彦・山彦の物語を画題にとったもので、現在は「海の幸」と同様に重要文化財となっている。「画家の後裔」にも引用されているが、夏目漱石は「それから」の中で次のような印象を語っている。「いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている背の高い女を描いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来ていると思った。つまり自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからであるー」と。このような絶賛と審査結果のギャップに、打ちひしがれるところを、更に父・青木廉吾の危篤の知らせが、妻子との永遠の別れをもたらす。画家の末裔の物語はここから始まる。
 青木繁を待っていた久留米の現実は、廉吾の残した莫大な借財と、母姉弟妹らの生活の糧を稼ぐことであった。1908年秋10月、母マサヨと衝突、母は姉妹弟を連れて実家に帰ってしまう。画家でしかない青木繁がどうして生活の糧を稼ぐことが出来よう。母に見捨てられたと、いう思いは彼を放浪へと向わせる。福田蘭道は後年、マサヨの死の床で聞くのであった。マサヨはいう。「私は他の子供を全部つれて実家へ帰って了ったが、その夜、余り気にかかるので庭づたいに入って見ると戸がしまっていたので、戸の節穴から覗くと繁は、蝋燭を二本立てて大きなカンバスの前に腰かけて、腕を組んで目からは涙を流してそのカンバスを見つめていたのです。その淋しい夜、おそろしい夜、私は呼ぶことも出来ずそのまま帰って、次の朝行って見るとカンバスはバラバラにちぎってあり、瀬戸物は全部こわして繁の姿はもう見えませんでした。―――これが繁の最後のお別れでした。」孫の福田蘭道はどのような気持ちで聞いていたのだろうか。その淋しい夜、そのおそろしい夜に声をかけることがなぜ出来なかったかと。抱きしめること一つが母の仕草ではなかったかと。見捨てられた息子は、社会を捨て放浪のなかで結核を患い、野たれ死んだのであった。1911年、28歳の天才画家の死であった。病床から姉妹に宛てた手紙には「小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の為劫にてや候べき。されば是等の事に就いて最早言うべき事も候わず唯残るは死骸にて、是は御身達にて引取くれずば致方なくーー」後の世に天才画家と呼び、重要文化財に指定しても、生きているその現世での生活基盤がなければ「水の泡」と消えていく。
 福田蘭道は本名を石渡幸彦という。父も知れず、母も知れず、戸籍の生年月日をも信用せず、ただ笛を一つに人生の道を開こうと稽古に通う毎日であった。そんなある日、東京文京区本郷の道端でおばさんから声をかけられ「無言のまま年老いたおばさんに連れられてその門をくぐって室にかかげられた額を見せられて、生まれて初めての悲しみを知って了った。」と回想する。父青木繁がそのおばさん夫婦に幸彦を依頼した文と「大穴牟知命」の絵であった。こうして「生の記録をはっきり感じた」幸彦は修学旅行の帰りに、大津の町をさまよい、母を探し当てる。それは、大穴牟知命を介抱するウムギヒメである。父を失い、母に捨てられた独りの若者は「虚無僧に身をやつし、放浪の旅を重ねながらひとり学ぶ修行」によってやがて流行作曲家となる。
 石橋エータローは本名を石橋英市という。石橋は母の姓である。父福田蘭道は死んだと聞かされて育てられる。石橋英市は、身近に「大穴牟知命」を見、またウムギヒメが福田たねであると教えられていた。大学生となった英市は母に内緒で、湯河原に女性とその母と暮らす父蘭道に会いに出かける。その後、行き違いから父子の関係は断絶する。母も再婚の道を選ぶ。「母に見捨てられた」と感じた石橋英市もジャズピアニストとして孤独な放浪が始まる。そして結核を患う。そのような絶望のなかで縋った父には「何だ、まだいたのか、これから雑誌の取材が待っているから急ぐんだ」とはねつけられ、「―――お父さんーー私は呼ぼうとした。だが、声にはならず、涙と鼻水で顔中がくしゃくしゃになった。」この悔しさから石橋英市は「新しい自分を見出した」。クレージー・キャッツの一員となり石橋英市は石橋エータローとなっていた。
 芸能の華やかな活動が始まる。その最中、再び病魔が襲う。見舞いに訪れる福田蘭道、その愛人、そして福田たね。福田蘭道の見舞いを断る石橋英市。病室に入ってきた福田たねの印象。「戸が開いて、まん丸な眼鏡をちょこんと鼻の上にのせた、思ったより小さなおばあちゃんが入って来た。」「『みんな私が悪いんです、お父さんのやったことはこの私のせいなんです。これこの通りあやまるから、許してください』両手を胸の前に合わせて目を瞑るのだった。皺の多い、肉付きのよい小ちゃな手である。」「祖母は私の言葉に一つ一つ頷いた。眼鏡の横から大粒の涙がこぼれ落ち,ベットの鉄枠を濡らした。」まるで映画のワンシーンのようではないか。
 このようなやり取りの中で、父福田蘭道との和解も成り立っていく。だが、親子の和解にそれほど心を動かされるわけではない。水に流すことは出来ても、水を戻すことは出来ない。
 心に残るのは福田たねである。
 祖母福田たねとの交流が綴られる。「祖母の部屋は小さな離れの一室で、自作の絵が十数枚立てかけてあって、老いても女流画家としての雰囲気を失わずにいた人だった。たいへん綺麗好きで、独り暮らしの台所には茶碗を伏せて、上からふきんを掛けてあり、身の廻りのものはいつもきちんと整理してあった。」「この祖母から、直接祖父・青木繁の話を聞いたことはなかったが、『じいさんが早く逝ったから、苦労が多かったよ。』と、言葉少なにいうこともあった。その間、結婚もしたのだが、それについても私はあまり聞いていない。」
 その福田たねは1967年、82歳で亡くなった。青木繁が自分の人生を水の泡にたとえて死んでいった年からゆうに半世紀は過ぎ去っていた。2歳で父・青木繁と生き別れ、5歳で死別した福田蘭道は1976年に息を引取る。そして3歳で父・福田蘭道と生き別れた石橋エータローは、蘭道と再会、祖母たねとも交流を持ち、1994年にがんのために死亡。こうして画家の後裔の物語はとりあえず閉ざされる。「画家の後裔」が再版される見込みはない。
 夏目漱石が絶賛した「わだつみのいろこの宮」の背の高い女性(トヨタマヒメ)のモデルは福田たねである。(2005/1/23
楽書快評
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