楽書快評
書名 密謀
著者 藤沢周平
初出 1982年 朝日新聞社
 直江兼続と言えば「直江状」である。上杉家謀反の問責に対する返答書を上杉家家老直江兼続がしたためた書状を直江状という。その本文の末尾に追書が記されている。
 「追って急ぎ候間 一遍に申述候 内府様又は中納言様 御下向の由に候間 万端 御下向次第に仕るべき候 以上」
 家康または秀忠が会津にやってくとのこと、その時は詳しくお話のお相手をしましょう、というのだ。やってくるとは征伐に他ならない。この直江状は偽書とも言われているが、それでは話が整わない。気概のこもった書状である。「密謀」はもちろん偽書とは扱っていない。
 主人公直江兼続は主人上杉景勝を次のように評する。「景勝は小柄で風采も上がらず、自分から口をひらくことは絶えてない。挙措まで荒く土くさかった。だが、兼続は、やや陰鬱な景勝の顔に、まぎれもない越後の顔をみるのである。」「越後の土地を保つ者は、貴公子の景虎ではなく越後づらの景勝でなくてはならない。兼続が御館の乱のときに抱いた感想はそういうものだったが、その確信は、その後も微動もしたことはない。」駿河から小田原へと進出した後北条氏の出である景虎は「人物が明朗にすぎ」る、というのだ。明るい貴公子として、藤沢周平は景虎を描き、越後の風土との相違を印象づけようとしている。しかし、これは同時に天下を狙うことを放棄することでもある。天下とは上杉謙信の時代にあっては中央の統制力が乱れた足利幕府であったが、景勝の時代はそうではなくなっていた。御館の乱で景勝ではなく景虎が勝利を収めていたら、天下を窺えたであろうか。その前に、秀吉による北条攻めに巻き込まれて上杉の家も滅んでいたかも知れない。
 「侵す者を討ち、義にそむくものを討つ。これが謙信の戦いで、兼続はかつて謙信が、天下に望みなし、わが本分は軍に臨んで機をみて敵を破るにあると語るのを聞いている。」だが孤高を保てた時代は過ぎた。天下は統一を見ようとしている。「謙信は天下に対する望みを口にしなかった。だから義戦に終始して悔いるところがなかったとも言える。しかし謙信の死後も、天下はゆるやかに回転して統一に動き、すでに上杉の孤立を許さないところまで来ている。謙信の家の立ち遅れは明らかだった。」と、兼続に言わせている。同い年生まれの石田三成との交流は、小説「密謀」の柱の一つである。天下の中心で織田信長、豊臣秀吉の二代に渉る「殺戮と調略」をみてきた石田三成への関心は、立ち遅れからの回復への布石、である。
直江夫婦の墓(林泉寺) 直江兼続は入り婿である。直江家は歴代国の政務を切り回してきた。そこに樋口与助が入り婿をした。与助の父・樋口惣右衛門はもと上田衆坂戸城の薪炭役という軽輩であった。与助は景勝のもと上杉家中第一の権力者であっても、家付き娘のお船にとっては「国政も、天下の形勢も関心の外にある。目に映るのは、三つ年下の若い夫のやや軽率な言動であり、またもとをただせば坂戸の薪炭役の倅といった血筋のことぐらいのものらしい。」だが兼続はどのように見られていようと、関心は義による一国の切り盛りにあった。
 天下は統一の機運の中にあり、織田信長を本能寺に落とした明智光秀を一瞬のうちに葬った豊臣秀吉がそれを成し遂げた。義に固く越後の地を保つのみを心掛けてきた上杉家も、この天下統一によって豊臣家の家臣となった。越後から会津に国替えも受け入れた。それから10数年がたち、豊臣秀吉が亡くなると、「積年、頭上を覆いかくして来た雲が切れて、青天をのぞんだ気持ちと言えば、死者をけがすことに相なりましょうか。」「もどって来た上杉をば、大切にせねばなりますまい」と直江兼続がいえば、上杉景勝も「そのことよ。二度と人手にゆだねてはならぬ」と応えるシーンを藤沢周平は描いている。こうして「密謀」にいたる本格的な展開が始まる。
 石田三成の人となりを居城佐和山の城を引き合いに出して藤沢周平は直江兼続に語らせる。佐和山城は濃尾、北陸から京に上がる道を押させる大きな城構えを持つが、三成の城の内装はほとんど貧しげであった。城は戦闘の用に立てばいいだけの機能を備えていれば良い。また有能な家臣は島左近や蒲生郷舎らのように万石を持って養う。要害を守るのに足る城と武士がいればよく、それ以外は無用のことだ、と。これは石田三成の心の動きに「欠けた部分があることを示すかも知れない」と直江兼続は思う。「石田三成の政治好みは、一種の奇型の相を帯びてみえて来る。」ともいう。「政治に対する関心だけが頭につまっていて、ほかのことはどこかに忘れて来たようにも見える男」とも評する。別の言い方をすれば、石田三成が欠けているのは在地のことである。佐和山を京への防禦拠点としての意義しか三成は認めない。それは三成が中央政治に生きる人間であるからだ。佐和山の民政という領国支配はいわば「無用のこと」であった。
 藤沢周平は上杉景勝、直江兼続の「上杉は上杉」という態度を、分国支配の自由と言う文脈で考えている。天下統一後の世界にあって、再び領土拡大で在地の勢力が互いに牙をむくという状況には戻れない。天下統一に伴う中央権力の権力強化には反対し、分国(地方分権)自治を求めた対応である。
 長々と、小説では石田三成との会話や「友情」が描かれるが、それは上杉がまず反乱を起し、家康が北上した隙を突いて石田三成が挙兵すると言う「密謀」を小説に盛り込むためであり、小説としては余り望ましい方法ではない。「秀吉には優遇された方だが、その秀吉にしても、上杉に対して生殺与奪の権を握る、畏怖すべき権力者であることは変わりはなかったのだ。その人が去って、いささか心がくつろいでいるところの、またぞろ天下人などという者が出て来て、頭をおさえられるのではかなわぬ。歓迎は出来ない。」と直江兼続は思う。それを中央権力による政治しか見ない石田三成は「兼続ひいては上杉の豊臣政権に対する忠誠と誤解したようだった。」この齟齬は立場の違いから生まれている。この齟齬の生む決定的な場面は、やがて訪れる。史実として密謀があったかどうかは不明であろう。もしあったとしたら「密謀」が甘かったのである。
 石田三成は孤立し、やがて佐和山の城に隠居させられる。家康は伏見城に入り天下を仕置きするようになる。それを横目にみながら毛利、宇喜田、など豊臣政権の5大老の多くが帰国するのに合わせて、上杉も会津に帰る。会津に入る7口を整備し、城壁を強化する。もしこれを咎められれば、家康率いる軍勢との戦いもやむをえない。そして「石田から挙兵の約定を取りつければ、上杉の立場はぐっと楽になる。懸念なく兵備の増強にかかることが出来よう。」と直江兼続は思うのであった。これは、石田三成や徳川家康のように天下から見た判断ではなく、上杉から見た状況判断である。上杉から見た「密謀」の限界である。弱小領主は天下を握る覇者に阿諛追従して、在地の延命を図る。強国は自力で民を養い軍備を整えて、分国自治を図る。やがて、軍備を整え会津領内にこもって、上洛しない上杉景勝に問責使が訪れる。1600年 慶長5年4月のこと。それは関が原の戦いの4ヶ月前のことであった。徳川家康はゆっくりと東海道を下り、7万人弱の将兵が会津討伐に向かった。7月21日江戸を発ち、小山に24日到着。そこで西軍挙兵の知らせを受けて、関が原に向けて引き返していった。会津領内から追撃戦を行おうとしない会津上杉家は歴史の表舞台から退いていった。分国の自治を目的とする上杉と天下を考える石田三成との齟齬がここに明らかになる。
 今日、関が原の戦いの結果を知らぬものはいない。徳川の天下が定まったのである。景勝の「上杉の家名を残すのだ。降れば領国を削られ、世に嘲られることは眼にみえているが、武者は恥辱にまみれても、家を残さなければならぬことがある。いまがその時ぞ。」と言う判断は正しい。「天下人の座に坐るには、自身欲望に首までつかって恥じず、ひとの心に棲む欲望を自在に操ることに長けている家康のような人物こそがふさわしい。景勝が新しい天下人があらわれたのだと言ったのは正しいのだ。――――義はついに、不義に勝てぬのか。そのことだけが無念だった。」と直江兼続に言わせるのは、いかがなものだろうか。日本一国領有の天下と言う義と、分国の自治を義と思う論理の体系は別物だからである。国家の問題と地方の自治との関係は藤沢周平の得意とする分野ではないことが判る。
直江堤 会津若松城120万石の大名は領地を召し上げられ、そのうち長井、伊達、信夫三郡30万石の大名として米沢城に移された。四分の一に削封されたのである。その後、直江兼続は米沢上杉家のために内政に心を傾け、現在の最上川(松川)の石造りの堤は今も残る。また、自ら農業の手引書「四季農戒書」も著している。学問にも心を傾け、現在世界に一つしかない国宝の宋版『史記』同じく『漢書』、『後漢書』は直江兼続の遺品である。さらに日本で最初の銅活字による印刷本「直江版文選」も出版している。私財を投じて禅林文庫も創設している。上杉神社稽照殿学芸員・尾崎周道は海音寺潮五郎との対談で次のように語る(「日本史探訪 第13集」角川書店1975年発行)。「あの人に興味を持つと言ってはおかしいかもしれないけれど、人物が大きいなあと思うのは、米沢というあんな小さな所で、―――戦いに負けて、しかも天下を争うような大戦をなしたあと、それが成らなかったのちにね、―――あんな小さな町で、投げないで、上杉家なり景勝という人のためなりに、そこに住む侍、あるいは民百姓のために、薄氷を踏むようにして、細心周到に処したということです。」素早く民政に心を切り替えたのであろう。40歳で敗北して後、20年間は民政に時を費やした。直江兼続は民政こそが得意であったのではないだろうか。それも利益誘導的な民政ではなく、義による民政が。悲しいことは、120万石が30万石となることではなかった。上杉謙信が掲げた義が忘れられていくことである。
 1619年 元和5年、江戸において直江兼続が亡くなる。60歳。1623年、同9年 景勝が亡くなる。その後の話は悲しい。娘婿政重は上杉家を去り、息子景明は早死した。直江家は断絶。菩提寺は景勝の子・定勝の代になって破却されている。なぜ、破却されるのか分からない。また、直江家が大切なら、景勝がそうしたように養子によってつなぐはずである。このような冷酷な措置が、「直江状」を書いたが為に、徳川幕府を畏れての仕置きであるならば、地方自治の義はどこにいってしまったのであろうか。(2005/1/30)
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