書名 青木繁と絵の中の女
著者 中島美千代
初出 1998年12月 TBS・ブリタニカ
 「青木繁と絵の中の女」は福田たねの実家から見た青木繁の生涯である。絵の才能はあっても、生活力と信義に欠ける男でしかなかった青木繁がそこにはいる。若くして傲慢、社会の常識に囚われない、自分の志す「絵」以外には関心を持たない。このような若者はざらにいるのである。青木繁は傲慢であり、また貧乏であったという。いずれも青春の特権である。しかし、美術学校を卒業して職に就かず、絵筆一本で立とうとしているその出発に、愛人が妊娠し、また上京した姉と弟と生活を支えなくてはならない環境に至ったのは、絶望的な状況であったろう。「海の幸」を描いた一度目の旅は意気軒昂であった。二度目の房州行きに「たねを連れて行ったのは、姉と弟を捨てて彼女と生きようとしたのではない。たねの妊娠を知られるのを懼れたからだ。こういう怯懦と因循な性格の男と結婚しても、女は幸福になれない。だが、たねも青木と同様、もう引き返せないところに来ていた。」と中島美千代はいう。問題はシンプルである。「怯懦と因循な性格の男と結婚しても、女は幸福になれない」と言う現世的な命題に異議を挟むことはできない。女の幸福という言葉には多義性がありすぎる。「怯懦と因循な性格の男」には類まれな絵の才能があった場合はどうするのか。人生は短い。そして一回しかない。無事に生涯を送ってもいかほどのことがありえようか。一緒に滅ぶことも、別の幸せであるかもしれない。このような考え方のあるのだ。
 近代的な個の意識は、必ずしも時代とマッチするばかりではない。青木繁の描いた絵画には近代があるかどうか、あるいは近代を超えた別の主体的な芸術が立ち現われるか、が肝要なことである。
 そしてたねの父親福田豊吉の経済的な支えによって、ぶじに息子幸彦も生まれ創作意欲も再び高まったしばしの幸せ、これはわずか2ヶ月しかもたなかった。幸せを破ったのは、青木繁の実家である久留米にいた青木の父の臨終の知らせである。たぶん、久留米にいる青木の親族は、たねとの間に子供がいることはしらされていなかったであろう。そこに青木繁の怯懦を見ることは容易である。
 中島美千代は青木がたねを捨てたのではなく、たねが青木を見限ったのだという。福田家の保護下にあった水橋村での別れのその後、再び東京で会った二人は青木が洗礼を受けた場に立ち会いながら「青木を見つめながら、たねは彼が上京してからの日をこの日まで考えたことを思う。こうこの人を夫として敬愛することはできない。たとえどんなに才能があっても---」と推測する。これは、これで正しい推測ではある。たとえどんな才能があっても、一緒に生きていくこと難しいと言う選択は可能だ。
 「私は思うのだが、もし青木とたねとを正式に結婚させようとするのなら、彼ら親子三人を東京に住まわせ、その生活費はもちろん、制作費、青木の望むものの大方を与えられるだけの財力が豊吉に必要だっただろう。それも一年でいいのか十年も続くのか、気の遠くなるような話だけれど---。」とも思いを中島美千代は語る。それだけではたぶん足りなかった。久留米にいる青木の母、姉、妹、弟の生活を支える財力が必要であった。パトロンがいれば、青木繁は傲慢であっても天賦の才を発揮できたとも思う。だが、近代絵画においてはパトロンの代わりに、画家を支えるのは商売である。商売の種は、美術界の評判である。明治の画壇は「海の幸」以降、青木を評価することはなかった。少なくともその中心にいる黒田清輝は。
 弟・福田実の言葉を信用すれば、たねは一度九州まで青木繁を訪ねている。たねが野尻某と結婚する少し前のことと思われる。しかし、家族からも見放されて放浪の旅にある青木繁の返事ははかばかしいものではなかったであろう。「『才能に惹かれ』て恋に落ち、一度は見限った相手だった。いよいよ本当に縁が切れる段になって、たねは青木へ断ち切れない想いを知ったのだ。栃木と久留米は遠い。----だが彼女は汽車に乗った。青木に逢いたい気持ちを抑え切れなくなったたねは、家族に大きな嘘をついて駅に駆けたのだった。」それはもちろん、未練でしかない。福田豊吉一家は福田たねの新たな結婚と、福田幸彦を引き取ることでの決着を選んだのだ。それはそれで世間知に長けた非情な選択であるとは思えないであろうか。福田たねが、青木繁の愛人として一時楽しい夢のときを持ち、また福田豊吉が「娘婿」の青木繁の才能を信じたことは幸せであった、と過去形で結ぶことができる。青木繁から見た視点で福田たねが不当に貶められてきた論評を中島美千代が、覆したことは確かであろう。
 青木繁と福田たねとの間に生まれた幸彦は父豊吉の息子として届けられた。しかし、幸彦はその後この福田家では育てられなかった。笛一筋の道に入っていったことは福田蘭道(幸彦)自身が語るところである。青木繁や福田たねとの問題を別にして、これはどのような経過があったのか。疑問に思うところである。
 青木繁の絵の評価に戻ろうではないか。福田家からみた青木繁の不誠実な行状を重ねて行っても、青木繁の絵の評価は変わらない。自負したとおり青木繁は天才である。青木繁の描いた何点かは日本の絵画史上を彩り、またある時代の精神のありどころを示していると思う。だがそれも、日本という限定されたローカルエリアでの話であり、それ以上ではない。青木繁が模範としたラファエロ前派にしても、また明治の洋画壇を支配した黒田清輝の外光派にしても、「洋画」と言う範疇からしてすでに遅れて近代化した明治のあり方そのものでしかない。ラファエロ前派か外光派かは、その時代が終わってしまえばたいした相違ではない。
 天才といっても、「明治画壇」という小さい宇宙での話である。それほど尊重するほどのものではないと言えば、それ限りの物語にもなる。青木繁の「天才」もローカルエリアにあってこその評価である。青木繁の傲慢や屈折が、遅れてきた近代日本のゆがみの中で、その絵の評価とともに論じるべきものではないか。
 近代以前の絵画も今もって私たちの心を惹きつける。たとえば、渡辺崋山が描いた「鷹見泉石」画である。下総国古河藩の家老鷹見泉石の顔・姿から意思的な人生を見ることができる。たぶん、日本というローカルエリアに限定しない評価を以ってしても第一級の人物画との評価を得ることができると思う。「鷹見泉石」は国宝として認定されているものでは時代的にいって一番あたらしい。国の宝として正しい評価である。これに比べると時代は新しくても、青木繁の描いた「海の幸」の評価はそこまでは至らないと思う。これは青木繁が「怯懦と因循な性格の男」であったこととは関係ない。(2005/2/6)
楽書快評
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