書名 川路花子の手紙
著者 川田貞夫
初出 1979年 「別冊 歴史読本 幕末維新を生きた13人の女たち」(新人物往来社)
川路花子の名前が突然出てきたので驚いた。あるいはと、思って読み継いでみるとやはり、である。「青木繁と絵の中の女」(中島美千代 TBSブリタニカ)には、恵まれた環境の中で学ぶ女子画学生の事例として取り上げられている。1876年 明治9に工務省により創設された日本で最初の官立の美術学校(東京・虎ノ門)である工部美術学校に入学したのは男子7名、女子6名。設立は殖産興業のためであり、芸術家よりも実用的な技術者の養成が狙いであった。画学生、女子の名前が挙がっている。大島雛子、山下りん、秋保園、山室政子、川路はな子、須川蝶である。中島美千代は次のような説明を行っている。「大島雛子の父は当時の工作局長大島圭介で、彼女は後に三共商会支配人奥田象三夫人になっている。川路はな子は外務省外国文書課長の川路温と結婚して、詩人川路柳虹の母となった。秋保園は写真家中島精一に嫁ぐ。彼女らは、いわゆる恵まれた環境にいた女性達だ。絵の才能はあったのだろうが、画家になるというよりは教養を身につけるという意味合いの方が強かったのではないだろうか。」
ここで名前の出た川路温は、幕臣川路聖謨の嫡孫である。幼名川路太郎といい、元服して温と名づけられた。川路聖謨の嫡男弥吉彰常が若くして亡くなったため、川路家の跡継ぎとして育てられた。川路聖謨が大老井伊直弼によって失脚させられると、家督を相続して1863年 文久3には御納戸、1866年 慶応2には歩兵頭並に登用されている。川路花子は、浅野備前守長祚(ながむら)の五女である。浅野長祚は江戸町奉行等を歴任した大身の旗本で、元は播州浅野家の流れである。浅野長祚家は三千五百石、川路聖謨は五百石という身分違いなので、聖謨は「不釣合」と反対したが、浅野家が強く望んだので結納となった、といわれる。なお、花子の実母は出羽国亀田藩2万石の大名・岩城隆喜の女である。幕末に今太閤とまで言われた川路聖謨の嫡孫であるから、強く浅野家も望んだのであろう。婚儀が整った1863年 文久3 9月、太郎18歳、花子14歳である。
「川路花子の手紙」と言う一文がある。川田貞夫が「別冊 歴史読本 幕末維新を生きた13人の女たち」(新人物往来社 1979年)に載せたものである。宮内庁書陵部蔵の川路花子の夫温ヘ宛てた手紙が掲げられている。最初の手紙は公武合体推進の為に将軍家茂の1863年 文久3の上洛に従って京にあった川路温宛のものである。新婚3ヶ月の15歳の新妻の手紙である。祖母の体調が思わしくないこと、夫がいないので寂しいひな祭りであったことなどを報じている。もちろん見事な筆であるが、「こがるる 花より 君の御そばへ」と署名された自署が美しい。「花」は一輪の花の絵なのである。川田貞夫の解説によると、梅かとも見えるが海棠ではないかと推測している。花子の号が花仙であり、これは海棠の別名であるからだと言う。この推測は正しいであろう。右の写真は番町の川路太郎邸跡である。ここから花が手紙を出した。
花の父浅野長祚も大身の旗本であるだけではなく、歴史に名前を刻む幕末の能吏の一人である。さらに川田貞夫によれば、自家に5万巻の書物を蔵し「五万巻楼主人」と称したという。画を好み椿椿山に師事して幕府随一とも評言された。花子も絵画の造詣が深かったと思える。
この川路花子が1876年当時に洋画を学びに工部美術学校に席を置いたことは初めて知った。しかし、いわゆる恵まれた環境の女性と一括されることには、疑問を持つ。たしかに実父は江戸幕府の高級官僚であり、嫁ぎ先の祖父は幕末最高の人物である。しかも、夫は江戸幕府にあっては高級官僚への道を歩み、また洋行帰りの人材として明治政府の官僚ともなった。1876年1月には寛堂(温)は大蔵省権少丞に任ぜられている。だが、時代の変化の中で実質的な家長は「徳川家譜代陪臣頑民川路聖謨」として自決し、また夫も必ずしも薩長藩閥政府の中で居場所に満足はできなかったようである。1877年 明治10 1月には官制改革により免職となっている。この年2月には西南の役も起っている。大切なことは、どのような心を持って生きるかである。
川路寛堂(温)が徳川幕府からイギリスに派遣された中村正直ら留学生の監督として渡英している最中(1866〜1868)に、徳川幕府は攻め滅ぼされる。1868年 明治元 3月26日付けで花子は温宛の書状をしたためたものが第2の手紙として載せられている。大政奉還の中で祖父川路聖謨はピストル自殺。花子は浅野家の別邸に逃れていた。このことを詫びながら、時代の激動の中で一時も早い帰国を願う文面となっている。自署は花仙である。寛堂(温)は1868年6月には帰国。その後、再び明治政府が派遣した岩倉具視使節団欧米視察一行に書記官として加わり(1871年 明治4 12月13日から873年 明治6 9月13日)洋行をしている。外務省、大蔵省に出任したが、やがて教育に道を見出していく。花子はそれに連れ添い、川路寛堂(温)が淡路島の本洲中学校長として赴任している中の、1903年 明治36 死去。54歳。
夫川路寛堂は己の人生を挫折と見なしていた。花子はどうであろうか。是非、幸せを胸に抱いた人生であったことを願いたい。(2005/2/13)

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