書名 渋江抽斎
著者 森鴎外
初出 1916年 大正5 1月13日〜5月20日
東京日日新聞、大阪毎日新聞
森鴎外は「渋江抽斎」において、抽斎の誠心と五百の勇気との物語を紡いだ。抽斎の誠心とは何であろうか。それは渋江という家の風である。渋江家は津軽家の定府の医官で知行300石。代々の漢方医である。抽斎の父允成は渋江家に15歳で養子に入った人である。允成は幼名専之助と言い、その父は根津の茗荷屋という旅店を営む稲垣清蔵といった。鳥羽稲垣家の重臣であったが君を諫めて旨に忤い、遁れて商人となった人といわれている。専之助が6歳で詩賦をよくするとの話を聞いて渋江家の養子に所望されたのである。神童であったのである。江戸後期、津軽家は4万8千石から7万石、更には10万石の大名に進む。これを「津軽家の御乗出し」という。蝦夷地の防備と警護とを担うことで津軽家は発展した。当時、藩主は寧親であったが、「允成は表向き侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任をこうむることが厚かったので、人のあえて言わざることを言うようになっていて、しばしば諫めてしばしば聴かれた。」「この津軽家の政務発展のときに当って、允成が啓沃の功も少なくなかったらしい。」と森鴎外は記している。諫めて追われた実父稲垣清蔵の気質を受け継いでいるのであろう。
允成の子が抽斎である。「抽斎は平姓で、小字を恒吉といった。人と成ったのちの名は全善(かねよし)、字は道純、また子良である。そして道純をもって通称とした。」抽斎は4度妻を娶った。2番目の妻威能の父は津軽藩留守居役100石比良野文蔵である。威能の祖父貞彦は壮年の頃、本所割下水から大川端あたりをうろついて辻斬りをし、千人斬ろうと思い立ったとのエピソードを持つ。それを聞いた抽斎は歎息して「自分は医薬をもって千人を救おうという願をおこした。」この志を思う。抽斎の歎息と誠心のありかを垣間見ることが出来る。
抽斎は医家であるとともに、考証家でもある。森鴎外が抽斎を知るきっかけはここにある。森鴎外は「多読の癖」から「随分多く書を買う」。徳川時代の事蹟を捜るのに、「武鑑」が必要である。こうして弘前医官渋江氏蔵書記という朱印に出会うことになる。そして、最古の武鑑を1645年 正保2の「屋敷附」であると森鴎外に先んじて断案したのが渋江抽斎であったことから、興味を覚えるようになる。渋江抽斎を知るに及んで、森鴎外は自分と似た人物と思いまた及ばないと感じるようになる。及ばない点は何か。抽斎は考証家として樹立するだけの地位に達しているのに、自分は「雑駁なるジレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎を視て忸怩たらざることを得ない。」畏敬すべき人物であると思い始める。
抽斎の日常は、江戸町文化の安定に中にある。家禄を保障された家を前提とした安定である。抽斎は貧を述べているが金は何に費やしたかと森鴎外は問う。「おそらく書を購うと客を養うとの二つのほかに出なかっただろう。」というのが森鴎外の推断である。その社会の仕組みに沿いながら、誠心をもって生業を営む姿を見ることができる。抽斎は津軽藩に仕える陪臣の身でありながら、1849年 嘉永2 3月7日、将軍家慶に「年来学業出精につき」謁見を許された。「世の数奇となすところであった。」と鴎外は記す。抽斎もまた祖父や父同様に、藩政にも関心をもっていた。いくつかの建策を津軽藩に講じている。その一つは江戸定府の人数を最小にして津軽に引き上げる案である。
抽斎の誠心とともに、「渋江抽斎」の魅力は4番目の妻・五百にある。あまりも有名な箇所ではあるが、引用したい。
渋江抽斎は父允成と同じく勤王を旨とした。そのために難にあったことがある。1856年 安政3 頃の話ではないかと鴎外は推測する。江戸の某貴人が窮迫し八百両の用立てが必要との話を聴き、抽斎は自家の窮乏を口実とした無尽講を催した。無尽講の夜、客が散じた後、五百は沐浴していた。翌朝に、某貴人に届ける約があったからである。その時、某貴人の使いと称する三人の侍が訪れてきた。某貴人は明朝を待たずに金を獲ようと使いを発したと言うのである。抽斎は応ぜなかった。三人の侍は刀の柄に手をかけて抽斎を取り囲んだ。
「このとき廊下に足音がせずに、障子がすうっと開いた。主客はひとしく愕きみ(月に台)た。」「五百はわずかに腰巻一つ身に着けたばかりの裸体であった。口には懐剣をくわえていた。そして閾きわに身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ちのぼっている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開くとき、持って来た小桶を下においたのであろう。五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、左右の二人の客に投げつけ、くわえていた懐剣をとって鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、『どろぼう』と一声叫んだ。熱湯を浴びた二人が先に、柄に手をかけた刀も抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。あと一人も続いて逃げた。」鴎外が抽斎の誠心と五百の勇気とを述べたのは、このエピソードを引いてのことである。
五百とは何者なのか。抽斎の4番目の妻は神田紺屋町で鉄物問屋を開いていた日野屋の女山内五百である。男40歳、女29歳の時である。五百は比良野文蔵の養女として嫁ぐこととなった。家制度が社会の根幹となっていた江戸時代においては身分が違うと嫁ぐことは出来ない。「文蔵は仮親になるからには、まことの親とあまり違わぬ情誼がありたいと言って、渋江家へ往く三箇月ばかり前に、五百を我が家に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を?めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。」江戸の家制度は家禄をもってなる社会システムの根幹に関る。同時に、そのシステムを前提とした柔軟な運用が多々見られる。抽斎の父允成が見込まれて養子となったように、また五百が仮親を立てて嫁いだようにシステムを維持発展させるには柔軟な運用は必須であった。江戸時代の家制度は、このように血統のつながりを必ずしも意味しない。
五百の勇気を示す挿話が森鴎外によって取り上げられている。五百は11、12歳の頃、江戸城本丸に奉公した。徳川家斉がたくさんの子供を産ませて、大名に押し付けた時代である。その頃の話である。行儀見習いのために、さる奥女中の部屋子にあがっていた。夕方になると長い廊下を通って閉めに行かねばならない窓があった。その廊下に鬼が出るとの噂が立ち、どの部屋子も嫌がっているなかに、五百は「おさなくても胆力があり、武芸の稽古もしたことがあるので、みずから望んで窓を締めに往った。」出てきた小さな鬼に灰をかけられた。五百は飛びついて捕まえると、それは鬼の面をかぶった銀之助という若君であった。家斉の34番目の子どもで、美作国津山松平越後守斉孝の次女徒のもとへ婿に入った斉民である。その後、五百は15歳ごろからは藤堂家に奉公した。五百の勇気は武勇を意味しない。
「五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言と呼ばれたという一面がある。」とも森鴎外は述べている。
藤堂家から戻って5年後。「五百の抽斎に嫁したとき、婚を求めたのは抽斎であるが、この間にある秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師石川貞白が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。」これもまた一つの勇気であろう。
先に述べたように、渋江抽斎は将軍家慶に謁見を許された。お目見えした栄誉は、多大な費えを要した。盛宴を開く。そのための広間の新築費用や、飲食贈答への費用捻出は、五百がおこなった。嫁入りに持ってきたニ百数十枚の衣類寝具を質に出し三百両、更には首飾類を売ってこれに充てた。「その状まさに行うべきところを行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。」
五百への見方は様々である。「五百には少女時代から武家奉公の経験があって、武士的な躾、たしなみが身についていた。鴎外が、共感をこめて書きとめた五百の振舞い、決断のそれぞれは、武士的モラールの見事な典型とすら見える。」「女性のうちに封じこめられた武士的エトスのこうした開花、結実はおそらく作者自身にとっても思いがけぬ成果であり、これは抽斎伝の不意打ちの楽しみ、美果の一つに数えてよい。」(「伝記作家としての鴎外」佐伯彰一 中公論社文庫版解説)。佐伯は五百に武士的エトスを見ている。花崎皋平は「妻五百の登場とともに、当時の富裕な江戸商人の世界が姿をあらわす。その世界に宿された高い文化と品位ある人格が、五百をつうじて示される。」(森鴎外「渋江抽斎」論 本と批評1979年10月所収)と江戸商人文化を五百に見る。「品位ある人格」という言葉が良い。家制度のなかでの物語ではあるが、それぞれの評者で見たいものが違っていると言うことであろう。
1858年 安政5 8月28日、コレラにかかって抽斎は絶命した。54歳であった。安藤広重など2万8千人が江戸市中で亡くなっている。抽斎没後10年、1868年 明治元、渋江家は江戸を引き上げて弘前にいたる。東北諸藩で官軍に加わっていたのは津軽藩と秋田藩のみ。東北列藩同盟のなかを「人煙まれなる山谷の間を過ぎた。縄梯子にすがって断崖を上下したこともあらう。夜の宿は旅人に餅を売って茶を供する休息所の類が多かった。宿で物を盗まれることも数度におよんだ。」維新の動乱は社会構造を根底から崩し、人々を新たな苦難に追い込む。こうしてたどり着いた弘前も安住の地ではなかった。家禄に基づく社会秩序は終わろうとしていたのである。程なく東京と改められた江戸に戻ってくることになる。「抽斎歿後の第26年は明治17年である。2月14日に五百が烏森の家で歿した。」このような抽斎歿後の記述が小説の半分を占めている。これは、抽斎が渋江家と言う秩序の中にあったが為である。これを佐伯彰一のように「ひたすら個人中心、個人の生涯の完結性という伝記ジャンルの大前提自体が、問い直されゆらぎ始めている兆候を仄見えているのだ。」(「伝記作家としての鴎外」中公論社文庫版解説)と読むのは違うように思える。
石川淳は「森鴎外」(1978年 岩波文庫)において第一の傑作とみなしている。「抽斎という人物がいる世界像」を描いた「渋江抽斎」は「古今一流の大文章」になっているとまで言い切っている。「鴎外の眼はただ愛情に濡れていたのであろう。」と。そして「抽斎への『親愛』が氾濫したけしきで、鴎外は抽斎の周囲をことごとく、凡庸な学者も、市井の通人も、俗物も、婦女子も、愛撫してきわまらなかった。『わたくし自身の判断』を支離滅裂の惨状におとしいれてしまうような、あぶない橋のうえに、おかげで書かれた人物が生動し、出来上った世界が発光するという稀代の珍事を現出した。」と。この評は確かな読みと美しい文章ではないか。
前年に発表した「じいさんばあさん」というこれも見事な文書表現とはまた別の、簡潔でリズムのある「渋江抽斎」という長編を、時を忘れて読めたことがうれしい。家禄を基本とする日本独特の封建制度にあって、抽斎の誠心と五百の勇気との物語とを描いた鴎外の「愛情」を感じる。その「愛情」は、明治の世が捨て去ろうとしたあるものへの惜別の心から発してはいまいか。(2005年2月27日)
註、中央公論社文庫版を使用。1916年は鴎外54歳。新聞に連載している最中に、母峰子を亡くし(3月)、4月13日には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長を辞任、予備役に編入という大きな節目の年であった。
久しぶりに石川淳の「森鴎外」(岩波文庫)を読み返した。挟まっていたレシートには「池袋西口 芳林堂書店 25JUL78」と記されていた。岩波文庫の日付が1978年7月17日 第1刷発行となっている。発売されたばかりの文庫に飛びついて購入した日を思い出す。その文庫も、いまや黄色く色あせている。また森鴎外「渋江抽斎」論の載る「本と批評 1979 10」に挟まっていたレシートは同じ芳林堂で「13OCT79」と打ち込んである。遠い日を懐かしく思う。

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