楽書快評
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書名 雪華図説正続新考
著者 小林禎作
初出 1982年1月 筑地書館
古河市内 雪印歩道 江戸時代に顕微鏡を使って雪の結晶を観察した大名がいる。古河藩土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)である。1832年 天保3に「雪華図説」、1840年 天保11に「続雪華図説」を出版した。「雪華図説」に載った雪の結晶図は、鈴木牧之の「北越雪譜」に転載され、世に広く知られることとなった。そして、着物などの紋様に結晶図が「大炊模様」と呼ばれてもてはやされたという。この雪の結晶の研究がどのような背景で実現したのかを、解き明かし、さらにこの研究が江戸の風俗にも影響を与えたことを網羅的に示したのが「雪華図説正続新考」である。小林禎作による新鮮な解き明かしがいくつもある。
 雪は寒くなければ降らない。さらに結晶が綺麗に形作られるのは相当寒くなくては出来ない。牡丹雪では結晶を観察することは出来ない。マイナス10度位になると雪は、結晶がはなれたままに降って来るので、いい結晶が見られる。古河は、下総国(現在は茨城県)にある。現在、結晶が見えるような雪が降る地域ではない。雪の結晶が古河でも見えた天保年間は、現在にくらべて寒い気象状況にあったのだと、小林禎作は語る。それはまた、冷害がたびたび襲った時代でもあることを指摘している。「天保3年から同9年までの飢饉を、世に天保の大飢饉とよんでいるが、『雪華図説』正続二遍に収録された大部分の結晶が、ちょうど大飢饉の年と符節を合わせて観察されていることは大変興味深い。」なるほどと思う。解き明かしのその一である。
古河城出城跡(歴史博物館) 天保期、気象条件は雪の観察に適した環境にあった。適した環境にあったからといって誰でもが雪の結晶を観察するわけではない。観察し、それを記録した古河藩主土井大炊頭利位とはどのような人物であったのか。徳川家康が江戸に幕府を開いた頃、古河藩土井家が成立した。16万2千石の譜代大名家である。五代利益が肥前唐津へ国替えになり、あわせて長崎御用を兼ねると蘭医を召抱え、蘭学を始めるようになる。八代利里が再び古河に戻る。そして古河藩11代目として分家から養子に入ったのが利位である。三河国苅谷藩主土井利徳(仙台藩主伊達宗村の三男)の4男(実は、利徳の子・利制の子とも言う。母は知られていない)。25歳で宗家の婿養子に迎えられてから運が開ける。朱子学を佐藤一斉に学んでいる。佐藤一斉は続編の弁言(まえがき)を書いている。学問好きの大名であった。利位は1823年に奏者番になったのを振り出しに、寺社奉行、大阪城代、京都所司代、西丸老中、本丸老中に進み水野忠邦のもとで天保の改革を担い、また最後には上知令に反対して水野忠邦の失脚に加担している。政務多忙である。利位は、名門への婿養子、学問好き、政治家、そして厳寒期という難儀を自らの運を開くことに変えられる人物である、と思える。
 天候と時代についてさらに追って見よう。「注目すべきことに、利位らはこの天保3年から4年にかけての冬に、古河で、一冬の観察としてはもっとも多数の五十五種の雪結晶を記録している。そして天保5年4月、飢饉があいつぎ、江戸・大阪に窮民が溢れて騒然としているさなか、利位は大阪城代となって赴任したのである。」「この天保6年の冬12月16日と19日の両日、利位らは大阪城中で二十九種もの雪の結晶を観察記録している。」大阪でさえ雪の結晶が採取できるような寒い天保期は、未曾有の一揆・打ちこわしを引き起こした。「よく天保8年、たかまる世情不安のさなかに大塩平八郎の乱が大阪に起った。」「この乱は事前に密告者が出たために、準備不足もあって一日で鎮圧されたが、大阪市街の約5分の1が焼失、羅災者の苦しみはさらに倍加された。平八郎は逃れて市中に隠れたが、1ヵ月後に利位の家老鷹見泉石が指揮する幕吏に囲まれ、自ら焼死して果てた。」大塩平八郎の乱の鎮圧の功によって土井利位は京都所司代、老中へとさらに栄達の道を開いたのであった。天候不順からする天変地異は、土井利位に政治の面でも幸運を運んできたものであった。
 雪の結晶の話に戻ろう。「とくに天保6年12月19日の図は、形が複雑繊細できわめて綿密に描写されており、厳寒のなかで、ゆっくりと観察が行き届いたことを物語っている。それに反して、正編初めの文政11年以前の三十八種と続編最後の天保11年2月の十五種の図は、単純な形にしか描かれておらず、気温が高くて融けやすかったためと推測される。」「利位や泉石らがマルチネットの著わしたオランダ語の自然科学書を学び、それに載った雪の結晶図に刺激されて自らの雪の観察に志したとしても、この天保の厳寒期にめぐり合わなかったら、『雪華図説』の二編は生まれなかったかも知れない。」
泉石隠居所 土井利位の描いた「雪華図説」では、結晶図とともに、オランダの物理の教科書を参考にして雪の性質を述べている。また雪の観察には舶来の顕微鏡が使われるなど蘭学なくしては雪の結晶観察はありえなかった。この蘭学知識はおもに家老鷹見泉石の力による。鷹見泉石は藩医河口信任に手ほどきを受けた以外はほとんど独学であった。彼はヤン・ヘンドリック・ダッフルという洋名まで持っていたと記されている。「雪華図説」正編のあとがきを書いている。また、鷹見泉石の蘭学仲間には渡辺崋山もいる。崋山が描いた国宝「鷹見泉石画像」は鷹見泉石の端正な姿を伝えている。この画像は先に述べた大塩平八郎の乱の平定に功があった土井利位が幕府から賞されたことを菩提寺に代参した泉石が、帰りに渡辺崋山の家を訪れた時に描かれた正装の姿である。
 小林禎作は、雪の結晶を観察したのは土井利位が最初ではなかったことを、明らかにする。例えば司馬江漢はマルチネットの結晶図を参考にして、顕微鏡で観察し銅版画「以顕微鏡観雪花図」を描いている。他に先んじた事例が工芸の世界でもあった。「雪華図説」の50年前にも大聖寺藩前田家の依頼で雪の結晶をあしらった刀の鍔(雪華文七宝鐔)が作られていることを示して、「そうすると利位らの観察の動機も、かえってマルチネットの和蘭絵図や、雪輪・雪華文様の流行にあったと考えられなくもないのである。」このように動機のひとつとして、新たな事実を掘り起こしている。
 もうひとつ解き明かす。それは雪の結晶の描写である。「わが国の紋帳に載る雪の紋が,『雪華図説』をもとに紋章化されたことはすでに述べたが、これとは逆に、利位の雪華図が、わが国古来の家紋の影響を強く受けているのも見逃せない事実である。」「グレイシャーの雪のスケッチに、観察したままを描こうとする科学者の目が感じられるのに対し、利位の雪華図には、型にはめて単純化した造形美にあこがれる伝統的な日本人の目が感じられる。」とする視点は重要である。伝統文化の素地のうえに、西洋の知識が加わり、新たな探求が生まれたのであった。解き明かされた事実を念頭において改めて、土井大炊頭利位の「雪華図説」の結晶図を眺めてみよう。美しい雪華が、厳しい時代背景の中から浮かび上がってくる。(2005/3/6)

 

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