書名 壬申紀を読む
著者 西郷信綱
初出 1993年6月21日 平凡社選書
日本書紀巻28の天武天皇紀上を壬申紀と呼ぶ。西郷信綱が壬申紀を読むにいたったのは万葉集への関心からである。万葉集における「歌風や歌の質や感受性の大きな屈折と変化」と壬申の乱とが関連しているのではないかとの考えからである。それは、更に壬申の乱の勝敗が別の形で終わったなら、万葉集ではなく懐風藻のような漢文主体の感性が主流となったのではないか、との想いにもつながる。大伴家持は壬申の乱に一族の命運をかけて大海人皇子側で決起した軍事貴族大伴氏の裔である。それに対して、大友皇子は中国風の教養人として自己確立を図ってきた。「もしかしたら」日本書紀のみで、古事記や万葉集はなかったと西郷信綱は「想う」のであった。また、古事記に関与した太安万侶は、安八磨郡にあった大海人皇子の湯沐令である多品治(おほのほむらぢ)の息である。
672年の壬申の乱は、天智天皇が大津宮で亡くなった直後、息子大友皇子と弟大海人皇子が皇位を争って内乱に及んだものである。それぞれが軍を動かして大規模な内戦を行った壬申の乱は、画期的な出来事であった。西郷信綱の叙述を追いながら、どのように画期的であったのか明らかにしてみたい。
まず、天智天皇の治政についてである。「天智の権威も、はや地の落ちていたに相違ない。それを決定付けたのは、白村江での軍事的敗北(663年)であった。外国とのいくさに負けること、それはほとんど王たるの資格を失うにひとしい。その点、称制期の事件ではあっても天智(中大兄)の権威には、即位(668年)前にすでに深いひびが入っていたと見て誤るまい。」即位したその時から、すでに権威は対外戦争の敗北によって「地に落ちていた」と西郷信綱は見る。中国・朝鮮連合軍の日本侵略への危機感から九州から瀬戸内にかけて朝鮮式山城を築き、都を琵琶湖の側の大津へ移した天智天皇の地に落ちた王位。これを誰がどのように継承し、王権を回復するのか。
壬申の乱は、もがりの空位に起きた王位継承の争いであった、と西郷信綱は規定する。 「しかし古代にあっては事情は異なり、むしろ空位を前提とした大位継承争いが王の没後には公然と演じられたのである。さもなければライオンではなくロバがたやすく王となり、王権は活力を失い衰弱を余儀なくされる。少なくとも武勇にすぐれていることが、王たらんとするものの不可欠の資格の一つとされる時代がかつては確実に存したはずである。天武を簒奪者にあらずとしたいために、こんな議論をもち出しているのではない。壬申の乱は、記紀に語るようにほとんど代替わりごとに王位をめぐって闘われてきた内乱、いうなればその伝統の最後の、しかもかなり荒っぽいしあげであった。」「しかしそれはこの乱の起きたのが空位期、すなわち新たな王のまだ誕生せぬ、いうならば混沌たる一つの過渡期であったことを忘れた判断と評するほかない。ありきたりの常識を以って、王権に固有な生理学と取り替える愚を犯してはなるまい。王国は新たな王によって征服される、というのが古代ではむしろ固有な姿であった。大海人も今や壬申の乱に軍事的に勝つことによってこの国を平定し、王位に就いたのである。」このような視点は大友皇子が即位していたかどうかの、問題を無意味にさせる。空位期という魅力ある時空の設定である。
次に大友皇子と大海人皇子との相違を解く。大友皇子は、
「大友皇子(648〜672)は天智天皇の長子で、母は宅子娘(やからのいらつめ)。懐風藻に伝と詩ニ首を載せるが、その伝には『博学多通、文武ノ才幹』があり、唐使劉徳高なるもの、『此ノ皇子、風骨世間ノ人ニ似ズ、実ニ此ノ国ノ分ニ非ズ』と評したとある。また沙宅紹明その他、百済から亡命してきたあれこれの学者に就き大いに学んだとある。」このような学才を大友皇子が滅んだ原因とする上田秋成の論評「大友の才くらぶる人なきが、亡ぶべきいわれなり」(胆大小心録)を西郷信綱は引用している。外来の学問が出来たからといって、統治が出来るわけではない。
これに対して大海人皇子のカリスマ性を論述して、「私が指摘したいのは、19歳の高市皇子を棟梁に、大海人という人物に深く心を寄せる舎人らがそのもとで指揮をとるという配置になっていたこの軍団の独自な編成こそ、あっという間に近江朝を滅ぼす活力になったのに違いないという点である。地方豪族を軸とするかつての国造軍が統合されるという形で、大海人の親衛隊は作りあげられたといってもいい。」
「大海人に帰依する人びとにより情緒的共同体ともいえるものが吉野側には創出されていたにたいし、近江朝には、才学はあっても『人のよせなし』(秋成)といわれる大友皇子を頂点とする官人的な体制が支配的であったように見受けられる。上から動員されただけで、兵たちに自発性がないともいえる。とりわけ近江防衛軍に無力さが目立つのは、そのせいに相違ない。」大海人皇子が後に「神」と呼ばれたのもこのような軍事的な勝利をもたらした圧倒的な存在感であったと思う。
戦いのさなか、大海人皇子はアマテラスオオミカミを望拝する。太陽神との一体化である。大海人皇子は26日朝、朝明郡迹太川のほとりで天照大神を望拝した。望拝はタヨセニオガムと訓まれている。西郷信綱はタヨセニオガムとは「それは遠くに望む大神を手もとに引き寄せるかのように拝むことであり、やはり伊勢の海を目の前にした仕草と思われる。その点、これはいわゆる遥拝とはやや違うのではなかろうか。」と解き明かしている。この行為には先行き不透明な軍事・政治的状況のなかでの「一種の危機感がうかがえる」ものと西郷信綱は考えている。戦いを前にした緊張がたかまるなかで、神を手もとに引き寄せるように拝む望拝の言葉の感じは納得できる。太陽神を引き寄せて軍事的な勝利を勝ち取った大海人皇子は、即位して「神」と呼ばれるようになる。王位継承者を軍事的な実績もなしに「神」と呼ぶ体制は欺瞞と映る。ローカルエリアの太陽神ではなく、世界宗教の太陽神を呼び込むことが、後の王位継承者によって志向されるのは、必然であったのかもしれない。
西郷信綱の見解に耳を傾けたい。
「補論 1 『大君は、神にしませば』の歌」で以下のように分析をする。
「天平勝宝元年(749)、陸奥国から黄金が出たというので聖武天皇が東大寺に赴き、お礼申しに盧舎那仏の前に『三宝の奴と仕え奉る天皇が命らまと云々』(続紀)と畏まって奏上した。これは記紀の神学によろわれてきたこれまでの王権国家が内部的に侵食されて変質し、新たな神学を求めざるをえぬ時期にさしかかったことを告げる重大な事件であった。聖武のこの姿は、普遍宗教にたいして国王はローカルな存在であることをあらわに示した典型といっていいい。とくに続紀に聖武は『北面』してかく奏上したとあるのに注目したい。盧舎那仏は輝きわたる太陽で、宇宙に遍満する仏身を意味するから、このとき、皇祖天照大神の神話上の地位は大きくゆらぎ始めたといっていい。が、それはとにかくその後の天平勝宝4年つまり大仏開眼の年、前に見たとおり大伴家持は大伴御行の『大君は、神しませば、赤駒の、云々』の歌、並びにそれとほぼ同じ趣の作者未詳歌を耳にしそれらを記しとどめたわけだが、こんな風に歌った二代前の先祖・御行と自分との間に歴史的・経験的にどのような距たりができているかにつき、このとき家持はまだ気づかずにいたように推測される。当たり前といえば当たり前という気がする一方、ここにすでに家持の、あるいは大伴氏の悲劇がきざしていたという気もしないわけではない。」
この分析は、秀逸ではないか。盧舎那仏と皇祖天照大神とはいずれも太陽神である。武力による王権奪取をともに体験した人びとが「神しませば」と歌った感動は過ぎ去り、感動による政権確立から、世界宗教を背景する王権維持へと転換する地点で、その転換を内面化できなかった大伴家持の「悲劇」を読み取る。一族を挙げて大海人皇子側に加担した大伴氏も居場所がなくなっていく。
地に落ちた王権を、回復した天武系王朝も再び転換を強いられる。「これは必ずしも王権の衰弱ではなく、王権が仏法によって新たにテコ入れされるに至ったことを意味する。壬申の乱と大仏の建立、この二つは恐らく古代文化の歴史を象徴的に仕切る事件であったのではないかと思う。」新たな太陽神に帰依することが天武系王朝の延命であった。だが、歴史は王権が再び天智系へと移っていったことを知らせている。
西郷信綱の壬申紀の読みを介して、大海人皇子の壬申の乱による勝利の要因と、その後の天武系の王位継承。そして、やがて訪れる天武系の廃絶と天智系への転換を、ある感慨をもって思い描くことが出来る。次の展開では王権のバックボーンの変化(太陽神の変化)が必然であるなら、大海人皇子に望拝されたローカルエリアの「神」は一瞬の光芒であったか。「万葉集」に屈折と変化とをもたらしたこの一瞬の光芒は、「日本書紀」「古事記」によってあたかも永遠の真実であるかのように残っていった。(2005/3/13)

0073