
書名 おくのほそ道
著者 松尾芭蕉
初出 1979年 岩波文庫(1703 元禄15年 井筒屋)
松尾芭蕉は1689年 元禄2 旧暦3月27日(5月16日)「行春や鳥啼魚の目にも泪」の一句を残して江戸をたった。46歳の時であった。日光に寄り東照宮を詣拝した。その折の句に「あらたふと青葉若葉の日の光」がある。新緑の日の光のすがすがしさと日光東照宮の尊さを重ねて詠じたものである。日光東照宮が
あるおかげで「四民安堵の栖穏なり」と述べているように、芭蕉にとって徳川幕府創業者は絶対であった。藤堂家につながる者らしい考えである(松尾芭蕉は、伊賀国上野の郷士の次男に生まれ、藤堂家の一門新七郎家に奉公にしていたが、若君が亡くなる事を契機に出仕の道を諦めている)。この「あらたふと」の句よりは、「暫時は滝に籠るや夏の初」(しばらくはたきにこもるやげのはじめ)の句の方が優れて季節感が出ているように思う。
芭蕉は日光から回って那須の黒羽で暫く留まった。ここは中世那須七騎のひとつであった大関氏が、江戸時代になって大名(禄高1万8千石)となった、その城下町である。この城が拡充されたのは関が原の戦いの時期で、対上杉軍の押さえとして接する那須地域の重要性が窺える。大関氏はこの上杉防衛線の一翼を担うことで近世大名家として残ることとなった。黒羽は那珂川、松葉川の合流地点にある。4月3日(5月21日)浄法寺図書高勝(桃雪)、鹿子畑翠桃兄弟を訪ね14日間の滞在をした。浄法寺桃雪は当時幼い主君に代わって藩政を切り盛りしていた館代であった。桃雪、翠桃の雅号は芭蕉が以前に使っていた「桃青」にちなむものと考えられる。
4月12日、浄法寺桃雪に誘われて、那須篠原に出かける。「犬追物の跡を一見し、那須の篠原を分けて、玉藻の前の古墳をとふ」と芭蕉は書いている。篠原は源頼朝が大規模な巻狩りを行った場所であり、後にこれを偲んで源実朝が「もののふの矢並につくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原」と詠んだことでも知られた場所である。ここで松尾芭蕉は「秣負ふ人を枝折りの夏野かな」を歌っている。今でもそうだが、那須野は原野である。夏草に覆われて道も分からない。馬のえさ(まぐさ)を背負った農夫から落ちた草を道しるべとして、芭蕉は歩いた。この句は先の実朝の歌とともに、玉藻稲荷神社の境内に碑が建っている。原野の中にわびしく建っている玉藻稲荷神社を訪れたのは2月であった。芭蕉が訪れた時期よりもだいぶ早く、境内には雪も残っていた。神社に向かって右には芭蕉の「秣」の句があり、その脇には小さな鏡が池がある。この池は蝉に化けた九尾の狐(玉藻)の本当の姿を映しだし、三浦大介義明
と上総介とによって狐が射殺されたところである。妖狐の霊を鎮めるために作られたのが玉藻稲荷神社である。鏡が池のまわりには座禅草の一群が咲いていた。水芭蕉と同じ芋科であるが、比べてはるかに地味なその姿は玉藻稲荷神社のわびしい佇まいに似合っていた。この後、芭蕉は那須温泉にある同じく九尾の狐・玉藻の伝説がある殺生石を尋ね、白川の関からいよいよ奥の細道に分け入ることとなる。
平泉で「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の降のこしてや光堂」を詠み、出羽の国へときびすを返した。金色堂に現われる東北独立王国であった奥州藤原三代の栄華は金、馬などの富の集積と京都との深いつながりをしのばせる。芭蕉の関心は杜甫になぞらえた栄華の跡にある。
紅花の産地である山形では尾花沢で「まゆはきを俤にして紅粉の花」と詠んだ。ここからは雪に映える銀山温泉が近い。立石寺ではあまりに有名な「閑さや岩にしみ入る蝉の声」でその静寂さを表現した。5月27日(7月13日)前日までの小雨でぬかるんだ山道。天候は「能」。岩に囲まれた急な山の頂に立石寺はある。訪れた者でなくては、その急な道を登る芭蕉の姿をイメージできない。蝉の声しか聞こえない森閑とした山道をゆっくりと歩いても汗は滴り落ちる。立ち止まるとその汗も急速に冷えていく。季節を切り取る、一瞬の言葉の輝きは日本語の特質ではないだろうか。
この季節を切り取る芭蕉の見事さは「五月雨をあつめて早し最上川」の句にもあらわれている。「あつめて早し」の言葉が情景を一気に浮かばせる。この句は最上川の船着場として往時栄えた大石田で歌われたものである。大石田は芭蕉が訪れた元禄期には隆盛を極め、三百艘の川舟が大石田にあったという。大石田の船問屋高野平右衛門亭で行われた句会で発句としてだされたものは「五月雨を集て涼し最上川」であった。芭蕉が推敲をかさねて「あつめて早し」に変化した時、最上川は激しく動き出したのである。大石田を尋ねたのは芭蕉が訪ねた旧暦5月(新暦7月)ではなく、新暦の3月である。道以外には雪が深く積もる町並みでは、消防の出初式が行われていた。句碑のある西光寺を捜して仁王門を入ると丁度住職が出かける時であった。芭蕉の句を尋ねると、雪の下にありスコップを貸すので掘るなら、夕方までには掘り出
せるだろうとのこと。残念ながら、雪の上から芭蕉を思うほかはなかった。
かつて芭蕉を訪ねて大石田にやってきた者に斉藤茂吉がいる。1946年1月から翌年11月まで滞在して歌集「白き山」をまとめている。「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」という歌もある。その住まいは聴禽書屋と名づけられた。現在、町立歴史民俗資料館となっている。2階建ての簡素な建物だが障子を開けると、回り廊下の窓からは雪景色の上を明るい光が差し込んでくる。大石田は雛祭りの盛んなところとのこと。最上川を遡って京都よりたくさんの文化が持ち込まれたのであろう。歴史民俗博物館となった聴禽書屋にも見事な享保年間の雛人形が飾られていた。(2005/3/20)
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