楽書快評
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0076
書名 初ものがたり
著者 宮部みゆき
初出 1994年 「小説歴史街道」
 白魚、桜、鰹、柿、鮭など季節の初物を取り入れて、人情に厚い岡引・回向院の旦那こと茂吉を主人公に、富岡橋に屋台の稲荷寿司屋を開いている親父、拝み屋の少年・日道を絡ませた捕り物帳である。茂七はおかみさんが仕立て物で生計を立てているので、生活費を気にしなくてすむ。そのため「どんな事件を扱うときでも、自分の心の秤だけを頼りに、まっとうに捌くことができる」のであった。茂七が近くに住む回向院は深川にある。振袖火事に合って亡くなった身元不明の無縁の人びとを弔った隅田川東岸の御堂が始まりで、1657年 明暦3の開創である。時代設定がいつ頃かは分からないが、少なくとも明暦以降である。深川は大規模な埋立地で、江戸時代には町人のまちであった。この町人文化を背景とした捕り物が物語られる。
 捕り物の推理の新奇さ・斬新さを求めるのではなく、人生の機微を丁寧に読ませるのが宮部みゆきの手法である。季節感と江戸深川の庶民性が初ものがたりの彩である。しかしその彩に迷わされてはいけない。宮部みゆきは人情や情緒を超えて人々の心にすむ魔物をえがくのを得意とする作家であることを忘れてはならない。カード負債を題材にした「火車」がそれを如術に示している。
 「お勢殺し」では薮入りを舞台として天秤を担いで醤油を売る女が、商家の手代の女房になろうと背伸びをした果てに殺される切ない話である。初ものは蕪である。トリックがあったりと「捕り物」的な推理がサービスされている作品である。殺した商家の手代には手代の夢があり、こんなことを言わせている。「だけど、薮入りのとき私について私のおっかさんに会いにゆく、嫁として挨拶するんだなんて、お勢があんなことを言い出しさえしなければ、私もこんなことはしませんでした。おっかさんには、死んでもお勢を会わせるわけにはいかなかった。あんな女が私の嫁になるんだなんて、おっかさんの夢を壊してしまいます。」夢という人生の希望に潜む魔物が、人生を破滅させる。
 2月末の大雪の風景から始まる「白魚の目」で出てくるのは当然、白魚である。だが、事件は残忍である。亀久橋の近くの小さな稲荷に住む孤児たち5人が毒を盛られて死んだ。殺したのは大店の16歳になる一人娘おゆうである。生き物をいじめたり殺したりして喜ぶ性癖がある。「おゆうという娘の目には、あの寺裏のお稲荷さんに隠れるようにして住んでいた子供たちが、二杯酢に付けられてまだぴちぴち動いている白魚みたいにしか見えなかったんじゃねえだろうか。」と茂七親分は思うと、白魚の二杯酢を食べることができなくなった。宮部みゆきはおゆうのような性格設定を使う場合がある。ここでは心そのものに魔物が住んでいる。だが、その魔物がおゆうに住むようになったいわれを宮部みゆきは解明しない。魔物は魔物のままである。
 次は「鰹」である。棒手振りの魚屋に鰹一本を千両で買おうという夢のような話が舞い込んだことが「鰹千両」の発端である。巧い話には裏があり、ここでも捨て子にした娘を取りも出したい商家の親の思惑に魔物が取り付いた。天秤棒ひとつで生活を成り立たせている魚屋親子の幸せに茂七は加担する。「太郎柿、二郎柿」は兄弟の葛藤の話である。「兄弟なのに、同じ柿の木なのに。渋柿と甘柿に」なってしまった人生の、あるいはなってしまったと思い込んだ兄弟の哀れな話である。身近な者であるからこそ抜き差しならない感情があるのだ。兄弟というかかわりの中に魔物が住んでいた。兄弟なのに、と兄弟だからとは同じ事柄の表と裏である。
 「凍る月」はこれも商家が舞台の話である。新巻鮭が盗まれた。猫が盗んでいっただろうと誰でもが思う。だが、奉公人の二十歳の娘・おさとがそれを盗んだといって逃げ隠れしてしまったたわいもない事件である。ここでは、奉公が見込まれて、若旦那となった松太郎の心のゆれと、慕っていたおさとの断念の様子とが小説の構成を形作っている。拝み屋日道10歳は、松太郎の心に住む魔物を明らかにする。「霊視をしたとき、そばにいた誰かの頭のなかに、おさとは死んでいる−水にでも入って死んでしまったのじゃないかという心配や、死んでいてくれればいいのにという期待があったので、自分はそれを感じとったのだろうと言いましたよ。」と稲荷寿司屋の親父が絵解きをする。身を引いたおさとについては「きれいな事ではあるけれど、どれほど自分の心を損なうことがあるか、賢い娘のことだ、じわじわと悟っていた」と魔物のありどころを茂七は明らかにする。魔物は心持を変えることで、払いのけることも出来る。
 「遺恨の桜」は少し手の込んだ小説である。遺恨は親子の葛藤へと主題をにつめていく。父親に「馬や牛よりひどいあつかいしかしてもらえなかった」子供が、一人前になったのを言いに来た時にトラブルが生まれた。心に魔物が住んでいるのは大地主の父親なのか、それとも一人で一人前になった姿を父親に見せようとする子供なのか。ここでも宮部みゆきはことさらに問い詰めていこうとはしない。「自分の心の秤だけを頼りに、まっとうに捌」いていくことだけである。捌いていくのであって、踏み込んではいかない。踏み込んでいってもしょうがないことばかりだからだ。
 小説集「初ものがたり」は初ものをおいしく料理してくれたり、事件解決のヒントをさりげなく授けてくれる稲荷寿司屋の親父や日道の謎は、なぞのままに終わってしまっている。文庫版のあとがきで宮部みゆき自身が「たいへん中途半端」と言っている、その通りである。人の心を覗いてしまう日道は、回向院の旦那・茂七の仕事と似ている。日道の父親・三好屋半次郎は昔岡引の手下をしていたことが語られる。失せ物、人探、頼み事は岡引の仕事と拝み屋の仕事との共通点である。父親の探索と子供のインスピレーションとが拝み屋を成り立たせている。その日道は、稲荷寿司屋の親父が屋台を出しているのは「人さがし」にあると示唆する。この親父は元火付盗賊改ではないかと、「突飛な」想像を茂七はする。そこで小説集は終わって、続編も出ない。稲荷寿司屋の親父の謎も、日道の謎も明らかにされないままだ。たいへん中途半端と宮部みゆきも述べてはいるが、それはそれで、人の心に魔物が住むようになったいわれをある一定の深さ以上には追求しない手法と、通じているようで面白い。(2005/4/2)
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