楽書快評
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 0078
書名 東と西の語る 日本の歴史
著者 網野善彦
初出 1998年 講談社学術文庫
 「東と西の語る 日本の歴史」は「日本」「日本人」に関る問題提起を含んでいる。「天皇」の称号と同じく「日本」も7世紀末に浄御原令によって「中国大陸を強く意識して日の出る東の方向にあることを強調する意味で定められたという事実を、現代日本人がほとんど知らず、そのため『日本』という国号をときによっては、われわれの総意で変えることも可能なのだというきわめて当然のことに、気がついていないこと」(「学術文庫まえがき」)を自ら反省する。この指摘の重要さは、今日さらに増している。
 「日本」が単一国家として神代の時代から、現代そして将来に渉って普遍であるという誤った見方に訣別するべきであることに深く同意したい。単一ではないことを、東と西の相違を基本的な構図にして論述したのがこの「東と西の語る 日本の歴史」である。正確には東は「東国−九州」であり、西は「西国−東北」である。あるいは西に「大陸−西国−東北」という図式を引いてもいいかもしれない。
 主題においた東と西の相違に関して、人口流動化は昭和40年代になってもほとんど行われずに97%は本籍地と居住地が東は東、西は西のままであること。例えばイモを儀礼食物とする分布に地域差があること。畠と畑という言葉の違い。中世までは畑は焼畑を示した。東日本は本家を中心とした同族関係を軸とし、神社の有力者に属する形(氏神)をとり、西では村の共同の神として宮座の組織が機能していた。東は同族的な結合に対して、西は講組的な結合が村落の基盤となっていた。などなど先行研究に学びながら「東と西をひとまず相互に独自なものとしてとらえ、その相違がどこまでさかのぼることができるのかをこれから考えてみることにしたい。」と語る。この相違を網野善彦は段階的な優位さ、歴史の進歩などのものさしで判断しない。このものさしは、単一性を前提とした間違った判断に基づいているからだ。先入観念なしに分析してみるとどうなるか。
 「三 考古学から見た東と西」では、ぶなを中心とする冷温帯落葉広葉樹林のひろがる東日本と、カシ・シイを軸とする照葉樹林が拡大した西日本では人口支持力が相違し、縄文時代中期において、小山修三氏の推計によると「北海道をのぞく日本列島の人口は約26万人余、その大部分は東北南部から関東、中部地方内陸部に分布しており、西日本にはわずかに2万人程度、全人口の7.7パーセントにすぎないという。」この東西の力関係を逆転したのは、稲作を持ち込んだ弥生人の渡来である。紀元前2百年、もしくは紀元前3世紀後半の時期から始まる水稲耕作文化は短期間で太平洋岸では名古屋、日本海岸では丹後半島まで広がって、いったん停止してしまう。これは当時の稲が東日本では生育しないという要素のみならず、狩猟・採集生活を基盤とする東日本の縄文文化の抵抗によると網野善彦は考えている。5世紀までに全国に広がった古墳文化、これを「いわゆる『大和朝廷』による日本列島の大部分の『征服』を、日本の歴史時代の起点とする見方にほかならないのであり、最初にものべたように、日本を単一民族、単一国家とみる根強い『常識』もここから直接の出発点をもっているのである。」大陸伝来の統治スタイルである律令国家の形成で全国一律の支配システムが行き渡ったように見えた。
 律令制度が崩壊して王朝国家へ変質する10世紀初頭には「一色に染め上げられていたかにみえた東と西の社会の特質が、ふたたび新たな姿ではっきりと表面に現われてくる。」唐風文化から国風文化への転換と軌を一にする。転換は武者の姿をもって立ち現われた。西の海賊的武者の登場は東アジアの動揺、新羅王朝の衰退によって朝鮮人海賊と日本人海賊の交流連繋がすすみ、他方では東国では俘囚の叛乱への対応として騎射型武者の登場を迎えた。街道で自由に交易し略奪する武装した富豪=地方有力者が牧場の馬と、野たたらによる製鉄によって基盤を作り出してきた。野たたらは、谷から吹き上げてくる自然風を利用する。これは「中国地方で製鉄に使われた大型の永代タタラとは異なったもので、むしろ埼玉県児玉郡金屋の鋳物師倉林家の製鉄炉と酷似する。」
 農耕だけでは歴史をとらえることはできない。製鉄にみられる生産とともにここでは交易が重要な要素としてとらえられている。
 大規模な群盗平将門首塚由来の蜂起、例えば鎮圧に10余年が費やされた物部氏永の蜂起の流れから、平将門の天慶の乱が起こり「新天皇」を称する東国独立国家が三箇月に渉って成立した。暦を司る役割を担う役職を持たなかったことが致命的な欠陥ではあったが。この東国の騒乱は、駿河にも及び官符使が襲われ、関が打ち破られた。この叛乱の後、藤原秀郷や平貞盛のように畿内の朝廷に結びついて「現実的」な道を選らぶか、東国自立を選ぶか選択が迫られるととなった。「東国人の進路の前には、つねにこの二つの道―西につながる路線と東国自立路線との岐路があり、東国人の指導者、支配者たちは、しばしばそのいずれかを選択するかに悩み、また相互に対立しなくてはならなかったのである」。将門は「東国の自立を求める人びと首塚の一つの精神的支柱となったことは疑いない。」
 東国の自立は以上のような構図である。東北はどのような形の自立を目指したのか。東北・東国との争いを介して、東北は安倍・清原・藤原の自立的な国家を形成した。また東国では平忠常による房総半島を王朝国家から離脱させた大規模な叛乱を、平定した源氏が東北への進出を意図した。前九年・後三年の役によっても進出そのものはならなかったが、東国での自立的な勢力付与に成功した。ポイントは東北・東国戦争という図式である。東北においては自立性を確保するためには東国を飛び越えて王朝政府に近づき、この司になることで発展の保障を得る道を選択したことである。東国を代表する源義家によって一旦は頂点に達した武家としての権限は、息義親が対馬守になることで西国にも勢力拡大をもたらし始めたことに危機感を強めた王朝政府は、伊勢に勢力を伸ばした維衡流平氏正盛を追討使として源義親を討たして、源氏の勢力を削減した。正盛の息忠盛は鳥羽院の院司として肥前国院領荘園神崎荘を基盤として大宰府の干渉を排除し宋商との交易をおこない巨富をえて、西国を代表する武家として勢力を築いた。
 このような自立的な勢力形勢の経済的な背景はどこにあるのだろうか。中世の土地制度は荘園公領制である。中央貴族・寺社の支配する荘、中央官庁や国衙の支配下にある保、国衙領の郡・院・郷・名・村などの単位によって構成される。下司・公文・田所などの荘官や保司・郡司・院司・郷司・名主などが請負・管理し、年貢を徴収して中央に送るシステムである。このような土地支配の単位は東国・九州が大きく、西国が狭い単位で行われている。重要な点は、年貢もたしかに米を年貢賦課の単位としてはいるが、国ごとに米、絹、布、綿、糸、などに分かれていて必ずしも米ではなかったことである。東の絹、布、西の米と大きく分けられる。これは西日本が水稲耕作に対して、東日本が畠作であったことが起因している。例えば武蔵国は絹と布とが年貢である。このようなことを網野善彦は明らかにする。年貢という税は、政府を動かす最重要課題である。政府は究極的な表現を使えば、入と出である。その、入が西にあっては米であり、歴史教科書の通例的な理解では年貢=米ととらえられているが、それは西の考え方であり、東では繊維製品(石高ではなく銭高)がその基準とされた。これは、税をとられる側にとっても、経済的な相違だけではなく、心理的な要素も大きく相違したと感じられる。また、地元支配者の統治スタイルの相違ももたらす。
 「東国では郡が基本的な徴税単位であった東国においては、広大な郡を請負・管理しうるだけの実力を持った豪族的な武士が、諸国に存在していた。」「そして一族の総領は、いざ戦争というときには、こうした郡内に散在する庶子たちを率い、一族を単位として戦陣に加わったのである。」東国御家人は将軍の家人として一族の総領が将軍に直接に名簿を提出して主従関係を結ぶ。西国にあっては、一つの郡内に別流の領主が分布し、在庁官人の同輩として存在し、総領は郡内の有力な領主であるに過ぎない。国ごとに守護が国内の御家人となるべき人びとの名前を名簿として提出し、京都大番役も一族を単位として勤任するのではなく守護に率いられて国ごとに勤務するのが西国御家人の特徴である。この相違は、東国御家人が新補地頭などで西国に移住した場合に衝突を引き起こす要因となった。
 いよいよ中世史の専門家である網野善彦氏の本領発揮である。新補地頭として西国に土着した東国御家人の系図を見ながら、実に奇妙な事実に着目する。現在の茨城県、昔の国名で言うと常陸の国の豪族であった藤原流の大中臣氏の分流である中郡氏や那珂氏が西国に定着した後にどのような姻戚関係を持ったのかを系図によって確かめたところ、同じように東国出身で西国に土着した御家人同士の婚姻が多くを占めた。他方、西国御家人はどうであろうか。若狭一、ニ宮の禰宜牟久氏ではほとんど在地の西国御家人・在庁官人との婚姻であり、東国出身者はみあたらない。和泉国御家人中家系図などにおいても西国御家人同士の婚姻が主流で東と西の婚姻はみあたらない。網野善彦氏はこれを「ごく例外的にしか、東国のひととは結婚していない。極言すれば、ほとんどまったくそれを拒否したといわざるをえないのである。」「私は東国人との婚姻に対する西国人の拒否反応、気質を異にする人との婚姻の忌避の一端を、みることができると考える。」このことは大変重要なことである。東西の人材の交流において、婚姻という最大の要素が東西でまじわらずにあったことの指摘は大きい。
古河公方館跡碑 別の章(十四)で、国際港としてあった小浜の若狭一、ニ宮の禰宜牟久氏系図ではさらに大陸からの影響が指摘されている。17代禰宜義文の没年が応永ではなく、「建文弐辰庚七月九日」と、明の元号によって記されている、というのだ。東国の自立的な志向は独自の暦の使用さえ行っている。室町時代、古河公方と呼ばれた足利成氏は、日光(西の比叡山に比される)との関係を深めるだけではなく、京都政府が改元したにもかかわらず長く享徳の年号を使用した。天皇による改元は東国では足利公方の裁量によった。東国では「公方−管領体制」が保持され、戦国期の後北条氏でさえ足利公方を「御家門方」として自らは執権=関東管領としての実効支配であった。後北条に組した日光山は一時的には凋落したが,徳川家が家康の廟堂を日光山に造営することで再び東国の精神的な支えとなった。
 中世に独自の暦が使われた時代があることが指摘され、室町時代には天皇や室町幕府の存在は「日本列島の人びとにとって、決して唯一の権威ではなく、大陸・半島の諸権威を含め、かなりの程度相対的なものだった」と根幹に関る指摘が具体例をもってされている。 
 このような相対化した文化状況の中で、東国はどのような精神のスタイルを築いたのであろうか。鎌倉幕府が定めた御成敗式目の、心に思ったことを「傍輩に憚らず、権門に恐れず」発言すべきという内容を含む起請のことばと、合議されたことを正しくても誤っていても全員の連帯責任であるという姿勢に、石母田正氏が「前近代の合議体の規範としてはおそらく最高の水準に属する」と述べている。「樹立した権力をできうる限り公正に、西国の朝廷に嘲笑されうることなく運営しようとする人びとの、極度の緊張を表現しているといっても、決して過言ではなかろう。」このような組織を動かす態度と姿勢は,近代がとうに過ぎた今日でも貫かれていない。「まさしく式目の制定こそ、東国の人びとがその国家形成の過程で独自に生み出した最高の達成であり、東国国家樹立の記念碑であった。」とまで網野善彦は賞賛する。
 網野善彦の引いた東西の図式(「東国−九州」「大陸−西国―東北」)は単一国家観への批判として有効である。人的な交流・婚姻の東西の固定性は、大きな要素である。とりわけ新補地頭として西国に土着した東国武士の婚姻の閉鎖性は着目点としてすばらしい。また、改めて稲作と畑作地帯の相違から発する年貢の形態、徴収システムの指摘は、東国武士団の形成の問題とも関連して忘れてはならないことである。そして統治の問題で言えば、中国伝来の考え方を待つまでもなく、暦(元号)は天地を司る絶対神のみが行えるものである。暦が違えば国が違うのも同じである。この点、平将門ができなかったことが、後の東国を実効支配した勢力によって容易に別の暦を使用していることが明らかにされている。若狭の禰宜家の家系図に使われた中国暦の問題とともに相対的な文化の課題として、きわめて今日的な指摘であると思う。(2005/4/17)
 
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