楽書快評
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0079
書名 中世内乱期の群像
著者 佐藤利彦
初出 1991年 河出文庫
 「中世内乱期の群像」は魅力的な表題である。「鎌倉末期、楠木氏に代表される畿内近国の土豪層が、勢力伸長にとって桎梏となっていた荘園制的支配秩序を打破するために蜂起した。それはまた、北条得宗家の専制的支配体制に抵抗する新興の中小武士団の行動でもあった。支配権力は、土豪層の行動を『悪党』と称して弾圧しつづけたが、14世紀の20年代に入ると、悪党蜂起は全国化し、内乱状況が出現した。後醍醐天皇の討幕運動は、このような状況を背景として現実化していったのである。」この記述に見られるように、「中世内乱期」の様相が一つの視点から浮き上がる。鎌倉時代の末期に、輩出した畿内を中心とする土豪層の面目が躍如としている。しかし、建武の中興を軍事的に担ったのは東国の大大名である足利氏である。鎌倉時代は雌伏していたとはいえ、「中世内乱期の群像」の初めに置かれたムサノ世の開始を告げる保元の乱で、天皇方に加わった兵力は平清盛三百余騎、源義朝二百騎とともに足利義康の百騎が中心勢力であった。従って、平家の政権の後に源氏が、そして源氏の開いた鎌倉幕府の後には、足利氏の政権に移行するのは不思議なことではない。足利尊氏の情勢判断の的確さは全国的な情報網が支えていたと、佐藤利彦は正しく把握する。「足利氏の所領は、本貫地である下野足利荘のみならず、守護国であった三河、上総のほかに、奥州から九州にいたる三十六ヶ所に及んでいた(「倉持文書」)が、それらを管理運営する一門、被官が、各地の情報の蒐集と交換、そして尊氏と連絡にあたっていたのであろう。」と述べている。楠木氏を始めとする畿内の中小土は反対勢力としては有能であっても、それ自体として国内を統一する主体勢力になるには不足するものがあったのではないだろうか。足利氏が持っていたのは全国を網羅するネットワークである。畿内の楠木氏が持っていたのは、ローカルエリアのネットワークであった。
 軍事政権が源頼朝によって築かれて後、後醍醐天皇はつかの間の天皇親政を夢見た。だが、親政の経済的・政治的な基盤をどのように作り出すのかの構想はなかった。「兵部卿護良親王の私兵が辻斬り強盗であったというところに、建武政権の性格の一端が浮き彫りにされている。後醍醐天皇は、天皇の権威を象徴するものとして綸旨を絶対化し、神格化した。しかし、絶対者の命令が神聖視されるほど、その偽者が作成され、横行するのが世の常であろう。」絶対者の命令は当然にも神聖視される。絶対者の命令が相対化したら、それは絶対者ではない。中世内乱期にあっては偽の綸旨が横行したかもしれないが、「神聖視されるほど、その偽者が作成され」るのは、かならずしも「世の常」ではない。建武の新政ではその経済的な基盤が作り出せなかったことが、偽綸旨に結びついたと考えられる。統治できない者がどうして神聖なるものと認められようか。
 建武の中興で登用された地方武士が公家風に染まり、また逆に公家が武士の習いを真似て犬追物を熱中する姿を諷した落書をもって「冷笑の中に、京都民衆の反権力志向を読みとることができよう」と語る。落書の冷笑は反権力である。だが、落書やブラックユーモアはそれ自体で自己完結する。繰言を重ねてもそれは、権力の補完物でしかありえない、という視点を打ち出すのは容易である。反権力とは、なんであろうか。既存の権力への異議申し立てが反権力であるのか。国内の政治を支配している勢力への、反対する勢力が反権力であるのだろうか。それとも、政治的な権力一般を全て否定することが反権力なのであろうか。
 後醍醐天皇、足利尊氏、足利直義、新田義貞、楠木正成、赤松則村、北畠親房、高師直など魅力的な群像が中世内乱期を駆け抜けた。その群像の中で、荘園公領制を現場で担っていた武士は、武家の棟梁として足利尊氏を選んだ。天皇親政の世ではなく、ムサの世を引き続き選んだのである。同じ時代には小さな尊氏、正成、師直が各地に現われて貪欲な人生を送ったことであろう。歴史の定式ではなく、その小さな貪欲者の泣き笑いを見てみたい。正成の孫・楠木正義のように北朝に寝返った土豪もいるのだ。その日次第で風に巻かれた小さな群像もまた魅力的であろう。(2005/4/24)