著書 独楽

  著者名
 高野喜久雄
  初出 1957年


 お前が立つのは
 お前がむなしく
 お前のまわりをまわっているときだ
 独楽に喩えて人間を唱った見事なフレーズを、しばらく復唱したのは10代の最後の頃であった。高野喜久雄がこの詩を書いて既に15年は経っていたのは知らなかったが。
 1927年に佐渡に生まれた高野喜久雄は一度詩を書くのを止めている。その時期ハイデッカーを読む、と年譜には記されている。その後、鮎川信夫に会い「荒地」に参加。1957年に第1詩集「独楽」を上梓する。
 存在と意識(自我)とのむなしい関係。意識がむなしいのなら、存在もむなしさ。存在のむなしさを思う意識のむなしさ。自分はなにものか、なにものになるのか。独楽は次のようにまわりはじめる。
 如何なる慈愛
 如何なる孤独によっても
 お前は立ちつくすことが出来ぬ

 慈愛や孤独。響きのよい言葉が否定される。そして、最初に掲げた断言調のフレーズが続く。存在と意識の緊張とが独楽を回す。でも、立ちつくすとはどんなスタイルを言うのか。なにものかになりたい、この過剰な意識に押しつぶされて、立ちつくすのではなく立ちすくむ自分が言い表されているように思えた。ハイデッカーの遙か以前、デカルトは我思う故に我ありと、宣言したのであった。が、戦後の荒地にあっても、日本では意識はむなしく、また人生の無聊を耐えるための知的な方法である。そうならば、立ちつくすことと立ちすくむこととはひとつの別の言い方であったかも知れない。
 しかし
 お前がむなしく そのまわりをまわり

 如何なるめまい
 如何なるお前のVieを追い越したことか
 そして
 更に今なお
 それによって 誰が
 そのありあまる無聊を耐えていることか

 西欧市民社会では意識が存在を駆使する。意識の権化は契約である。契約を介して人間関係を作り出し、自分を実現していく。そんなポジティブで骨太な人生を考えることは出来なかった。ただ、漠然とした不安の中で、若者はこの詩に共鳴したのであった。
 そして、歳月が積み重なって、なにものにもなれないことが意識されるとき、「無聊」などと西欧にはないと思われる概念で結んだ、この美しい詩に敬意を表したいと思う。自分以外のなにものにもなれなかったことも、立ちつくす姿といえるであろうか。(2003/12/7)

楽書快評
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