
書名 律令制の虚実
著者 村井康彦
初出 1976年講談社 2005年4月 講談社学術文庫
「日本は極東文化の“吹き溜まり”といわれている」と村井康彦は書き始める。吹き寄せてくる極東文化、特に古代国家を形成するのに圧倒的な制度であった律令制の根付き方を問うために書名を「律令制の虚実」と名付けた。周縁にあった地域の一つとして古代国家の形成には中国の制度を真似てきた。しかし、中国の制度そのものをすべて受け入れたわけではない。その事例として村井康彦は科挙と宦官とを挙げている。
科挙は六朝時代までの豪族割拠を根こそぎ打ち破るために、全国的な試験制度で官僚を登用するという皇帝絶対の官僚国家構想の中で生まれた。逆に地方豪族は、そのまま豪族として土地から離れなかった。宦官も「去勢することで権力への血縁的な介入を排除した上で近臣として使う」皇帝中心の側近政治であった。明代末には20万人を超える宦官がいたと村井康彦はいう。20万人とは途方もない、側近の数ではないか。
だが、日本では古代豪族及び渡来系出身の貴族が転身し、在地を離れて官僚化した。わずかに文章博士などにあらわれる試験制度も、日本の古代国家にあっては、貴族全体を覆う制度にはならなかった。10世紀には菅原・大江という土師氏から派生した根を同じくする一族が、文書博士を事実上独占した。一方、宦官の職務は女官である尚侍(ないしのかみ)や蔵人頭などが肩代わりする。どうしてこのようなことになったのか。村井康彦は次のようにまとめる。「わが国では旧い氏姓制度が根強く残り、門地にかかわらず人材の登用を建前としたはずの律令制の破綻、というより、事実は未成熟のままに無実化してしまった。そして結果は、本来の趣旨に反し、官職が特定の氏・家に固定し、いわゆる『家業』となってしまう。ここには、豪族の抵抗を排除してでも科挙を強行した中国の皇帝と、氏族社会に埋没した天皇との、権力の質的差異が横たわっていたと思う。」
家業として貴族を受け継いだ人々は、従って律令制を本格的に導入し天皇・皇親政治を行おうとした天武天皇の治政を「聖代」とすることなく、10世紀初頭の醍醐天皇(在位897〜930)・村上天皇(在位946〜67)の延喜・天歴時代を聖代と捉えた。人事の適正、任用の公正が聖代の中身である。官僚化した豪族である貴族の数に比して登用されるポストの数は少ない。この時代は律令制度の行き詰まりが明らかになった時期である。だが、門地かかわらず人材の登用という律令制の極東スタンダードは構想されなかった。律令、摂関、院政、武士政権、明治維新後も、今日においてさえ社会の底流として家業は息づいている。
次に村井康彦が注目するのは宮都の性格の変化である。宮都は当初、天皇の住まいであった。飛鳥浄御原宮時代にはまだ官人の宮都定住は実現していなかった。藤原京になって「左右の京城は、まず第一に官衙に出仕すべき官人を集住させるための空間であった。律令官人になることの意味は、何よりもまず都市民化するところにあったといえよう。もっとも藤原京にどれだけの官人が畿内・地方から住みついたか明らかではない。」
これを総括して村井康彦は「田舎に本拠をもつ古代氏族は宮都に集住して都市民となり、宮司から支給される給与で生活する律令官人となった。それが貴族になるということだった。『豪族らか貴族へ』の変身である。しかしその結果、日本の貴族は田舎を捨ててしまう。これは、帰るべき故郷を捨てなかった中国の貴族と大きく異なる点であろう。その変身を可能ならしめたのは、国衙=国司を通して行われた地方税制の整備(その一部が運京され中央官衙・官人費となった)にあったことはいうまでもない。その意味で宮都の発展は、律令制が中央・地方にわたって具現され実体化した微証であり、しかも日本的な特徴を持った存在であった。律令制の『虚実』にはそのあたりのことも含めている。」
こうして律令制の具体的な実現形態である宮都=首都の形成、すなわち天皇の居住空間から百官の府への質的変化が藤原京から始まる。しかし給与制度に裏打ちされた京住政策の適用は五位以上の貴族中心のみであり、それ以下の者は「帰田」して家々に蓄えた穀物をもって官位を求めることをしてもよい、との太政官奏が721年 養老5に出されている。このことを踏まえて、その官僚=給与生活者への転換の未熟さを村井康彦は指摘している。さらに、このような百官の府は天皇の公私の区分を前提とするが、私=側近政治は存在し続けている。
しかも日本的な展開を大陸との接触の途絶によって育ったという認識を誤りとして退ける。倭風は平安時代の「唐風趣味を経過してはじめて出てきた認識であり、美意識だった」と村井康彦は語る。梅から桜への変化も、嵯峨天皇の治政が唐風文化の盛んな時代においてである(凌雲集などの漢詩集の勅撰、宮城門を漢風称号に変更など)。唐の滅亡後、宋が建国されると商船の行き来も盛んになっている。「唐物趣味は高揚の一途をたどるのである。“国風”文化を単純に唐物文化の排除とか、その影響力の希薄化の結果とはいえない理由がここにはある。」「いわゆる国風文化は、異文化との接触・交流・受容を通して感覚・感性が磨かれ、それに基づく自前の文化として育てられたのであって、けっしてその逆ではない。」
日本のそれは、自前の制度、自前の文化はそれ自体で生まれるのではなく、大陸文化の影響のなかで変容した文化である。あるいは変容しただけの文化である。極東文化の吹き溜まりとはこの言いであろう。(2005/5/6)
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