
書名 塩の道を探る
著者 富岡儀八
初出 1983年 岩波新書
「赤穂の塩田地帯の片隅に育った私は、幼いころから、塩浜村の風景をよく見てきた。浜(塩田)道具を修理する鍛冶屋の朝は早く、威勢のよい槌打つひびき、夜なべに曲げ物の修理や、みがき輪(曲げ物の竹輪)づけをする桶屋。」このような原体験を深めて塩の道を探る人生を送る富岡儀八は幸せ者である。だが、それは戻ってこない過去の風景でもあった。
「塩の道を探る」膨大な内容の中から、私の関心は、いくつかの塩の道と、交易の姿、そして在地の塩業と赤穂をはじめとする大生産地の全国展開との関係である。
はじめの関心は、下総の行徳である。江戸湾岸の行徳は利根川・隅田川に近く燃料となる薪の入手、そして塩の販売に適した産地であった。「例えば、下総の行徳は、天正(1590)年に関東八国の領主となって江戸城に入った徳川家康が、領内の経済的な基盤を固める必要から、『塩の儀は御軍用第一の事』と、塩浜の開発を積極的に奨励したところである。その結果、領内はもちろんのこと、関東一円の地域にまで手広く売り出すほどにまで成長した。ところが17世紀初めごろにもなると、上方(大坂)から塩が入りはじめた。年とともに発展をつづける安くて良質な瀬戸内海塩にはとても太刀打ちができず、すでに17世紀末ごろには、18の塩浜村のうち6ヶ村が百姓に転向し、170町余りが廃田になってしまった。しかし、幕府は、休浜にしたり、荒浜のままに放置するものがあればきびしくとがめる(元和6)など懸命の維持策を講じた。これは軍用と不慮の災害に備えて、自給体制を確立するためであった。」と述べている。
この行徳について詳しくみてみたい。徳川幕府の振興策に支えられて「寛永6(1629)年には、26の塩浜村と370町歩余の塩田をもつ関東最大の製塩地にまで成長したのである。江戸湾岸には、そのほか津田沼、船橋、葛飾および武蔵の大師河原などでも入浜式塩田法による製塩がおこなわれていた。これら江戸湾岸でとれた塩は、昔から地元の塩商人によって笊に入れたまま伝馬船で江戸に運ばれ、塩市や棒手振り(ぼてふり・行商)などで売られてきた。ところが、享保9(1724)年に76軒の地回り塩問屋が株仲間を組織してからは、府内での地塩の販売は、すべて彼らの手にゆだねられることになり、南は六郷川、東は中川筋にいたる地区の販売を独占したのである。この地回り塩問屋は、嘉永4(1851)年には58軒が数えられ、芝、日本橋、神田、浅草、深川、本所など、隅田川の下流部から河口にかけての地区に多く集まった。他方、近世に入ってから、瀬戸内海の各地に塩田開発がすすめられ、良質で安いために好評を得た。渡辺則文氏によれば、上方(大坂)と江戸間に、菱垣回船が活動をはじめる元和5(1619)年ごろには、すでに『下り塩』とよばれて、瀬戸内海塩が江戸へも運ばれたが、寛永末(1643)ごろから大量に移入されはじめ、享保11(1726)年には、実に167万俵にもたっしたという。ともかく、寛永期から元禄期(17世紀の後半)にかけて、瀬戸内海塩が地塩にかわって主要な位置を占めるにいたったのである。もちろん、江戸の塩田は、元禄期ごろまでには、すでに半ば以上が廃田になり、塩浜村も12か村に減少した。」
このように下り塩によって駆逐された行徳の塩も古くは「利根川筋を吾妻領碓氷峠の下まで養う」とまで言われていた。水運を使った塩の道である。隅田川の河口から多くの河川を上って人々を養ったのである。「山地と低地とが接触する谷口にできた今市・栃木・渋川・青梅などは、市場町として栄えたところである。」さらに「塩荷の遡航終点になった阿久津・壬生・栃木・倉賀野などの河岸場では、塩の取り引きが多く、国境を接した山国の会津・信濃方面から嶺線越えで塩買いにくる馬方もいたのである。」このような経路は、上方からの良質な塩に変わっても同じであった。富岡儀八が利根川を遡って南会津へ伸びる塩の道を示しているので、それを見てみたい。江戸の本所あたりから川舟に積まれた塩荷は江戸川を遡り68キロ先で関宿河岸から利根川に入る。ここから10キロほどあがった栗橋の北側から支流の渡良瀬川に入って、古河河岸を過ぎたころ、さらに巴波(うずま)川に入って部屋あるいは新波(にっぱ)河岸にいたる。ここまで100キロ。川の流れは5,6千分の1ほどのゆるやかさ。明治になっても上りは5−6日、下りは2−4日で江戸に着く行程であった。部屋河岸から勾配が500分の1にあがるため、小型船に積み替え、巴波川を引き舟で16キロあが
ると栃木河岸に到着する。栃木の倭町の幸来橋付近には、今も綱手道が残されているという。ここからは馬の背に乗せられて運ばれる。日光への例幣使街道を通って、今市にいたる。今市は会津西街道、日光道中、例幣使街道などが集まる下野北西部の中心地であった。寛保期(18世紀半ば)からは行徳塩にかわって下り塩が入ってきている。塩問屋が11軒もあったという。ここから馬荷となって会津西街道を北下野の五十里、三依、川島方面からさらに山王峠を越えて南会津に入り、田島を中継地として会津若松城下に近い上郷・下郷まで入っていった。特に今市から田島までの70キロは豪雪地帯で、交通が途絶えると南会津では塩不足、今市では米不足となった。塩の道は命の道であった。村総出で寒中に積雪を掘り割りして馬道をつくった、と富岡儀八は記している。
平野部が広く、その中を河川が長く伸びていく関東では江戸を中心に放射状のように塩の道が広がっていく。地方の真ん中に背骨のように山並みが連なる地方ではどのような塩の道があったのであろうか。中国地方の備前、備中では、「吉井川・旭川・高梁川などに高瀬舟の交通がよく発達し、備前の小串、備中の勇崎、播磨の赤穂などの南塩が内陸深くまで運ばれた。ところが、中央分水界に近い山陽北端部の美作の上斎原・川上・八束の村々では、山陰側の倉吉や米子から北塩(平野・松崎などの地塩や三田尻・下松塩)が、牛・馬の背で人形峠・田代峠・犬挟峠などを越えて運びこまれており、南塩と北塩の複合地となっていた。ここでは、明治前期には、山陰の倉吉や米子の経済力がつよく、それに引きつけられてむしろ北塩の方が優勢であった。」このように地勢のみならず、経済的な中心地との関係で塩の道が定まるケースもある。
塩・米などを交易する船賃はどのくらいになるのであろうか。交易は膨大な利益を生み出す。「北前船は、北海物を積んで、馬関海峡を経て上方へいく途中に、三田尻で塩を買い置き、上方からの帰路に、塩を荷積みして帰帆するというのが普通であった。」「船主が船頭であり塩商人でもあったのである。柚木学氏によれば、700−800石積みの北前船の建造費は1000両ぐらいと見積もると、北国の船頭は、買積運送で、毎年その程度の純利益があげられるから、第1年度の利益でその建造費が償却できたという。」大坂へ入った塩は寛永期(1624−44)には25万俵、嘉永期(1848−54)には60万俵に達しているという。角倉了以は1611 慶長16年には京都二条から伏見に通じる高瀬川を開削した。淀川から大坂に通じる舟道を築いたのである。「これらの舟運は、当然、多くのものに利益を与えたのであった。例えば、高瀬川では、京・大坂間の運航は、9月から翌4月までを最盛期として、159艘もの高瀬舟が行き来した。この船賃は、一回が2貫5百文で、内1貫文は幕府へ上納し、250文は舟の修理費に当て、残り1貫250文が純益となる。これを往復船賃の8か月分に通算すると、その収入は莫大なものになる。」地方河川ではどうであろうか。先に見た吉井川の事例を富岡儀八は載せている。「貞享4(1687)年の記録でみると、一艘当たりの運賃は、上流の津山を基準に、夏では25キロ下った周匝(すさい)までの7匁を基本運賃として、37キロの和気までが8匁、58キロの板根が9匁、72キロの金岡が12匁、89キロの岡山が15匁となっていた。
海岸線で作られる塩は内陸奥地に運ばれれば、それだけ高くなる。富岡儀八は東北地方を事例に図に示している。移入港である青森湾奥の野辺地では一升25文である塩が158.5キロ離れた盛岡城下では42.7文にもなる。地域間交易の重要性とそれが生み出す富の桁外れの大きさを改めて認識させられる。
塩の道は、近世までの地域の人々の生活と文化の道であった。だが、船便と牛・馬荷によって形作られた塩の道は、鉄道の普及によって消えていった。昭和10年代から始まる塩の工場生産化が起こり、昭和40年代初頭には化学製塩となり、塩田は廃田となった。赤穂をはじめ瀬戸内塩が全国を席巻し、行徳の地塩を駆逐したように、新たな技術の進歩は富岡儀八が少年のころに親しんだ風景を消し去った。そして塩の道も、富岡儀八の「塩の道を探る」によって記憶に残されるものとなった。(2005/5/15)
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