書名 保元・平治の乱
著者 飯田悠紀子
初出 1979年8月 教育社
 平氏政権が武家政権の成立における発展の一段階であることを、保元・平治の乱の意味を問いながら明らかにしようとしたのがこの本である。
 院といういびつな天皇家の支配構造は摂関政治への対抗策として生まれてきた。しかし、この政治スタイルは天皇家内部ので亀裂を生まざるを得ない二重権力状態を常態化していく。この朝廷内部の権力闘争が、本格的な武力闘争を呼び起こした。武力闘争は恵美押勝の乱以来のことであろう。飯田悠紀子は、武門の棟梁を単に武士団を率いる最高の棟梁というのみならず国家の軍事部門の総師の地位を持っていることを挙げている。平氏政権は平氏という武士団の最高の集団を率いているのみならず、王朝国家の侍大将でもあったから、武門の棟梁と言ってよいと分析する。平治の乱後に全国各地の武士を家人化するとともに内裏大番制の差配権を掌握している。これを武家政権である証左としている。
 「崇徳上皇は、後白河天皇の即位と守仁親王の立太子により、完全に院政への望みを絶たれ、新しい朝廷とは全く相いれない存在となっていた。」また摂関家においては父忠実から氏の長者の地位を得ていた頼長は、兄忠通が後白河上皇に接近するなかで孤立していった。後白河天皇は東三条邸を、源義朝らの兵を派遣して押さえた。ここには藤原氏の氏の長者の象徴である朱器台盤があった。このような天皇方の武力を伴った挑発に、崇徳上皇・頼長が白河の御所に入り戦闘態勢を構える。主力は河内源氏の嫡流である源為義の一党である。これに平忠正、平正弘らの平氏が加わっている。直ちに天皇方も内裏高松殿に武士を集結させた。為義の嫡子源義朝、足利義康、多田源氏の源頼政、平清盛である。勝敗は白河殿夜討をかけた天皇方の勝利に終わったが、天皇方の兵力にしても六百騎程度でありまた戦闘範囲も京の一部の施設に限られていた。狭い範囲でまた小規模の戦闘によって状況が変わる場合、戦略的な認識より戦術的な判断が優先される。夜討、朝駆けなどの戦術は小手先の技術ではあるが、有効である。乱後の処理で特徴的なことは「死罪ハトドマリテ久ク成タレド、カウホドノ事ナレバニヤ、ヲコナワレニケル」(愚管抄)である。薬子の乱以来の復活である。この変化は大きな事であると思われる。
頼朝・正清の墓(勝長寿院跡) 続いて飯田悠紀子は乱後の治世における天皇の権力強化を論じる。荘園の整理を命令した「新制七箇条」には「九州の地は一人の有也。王命の外、何ぞ私威を施さん」と述べられていた。このような政策を推進したのは信西入道(藤原通憲)という藤原傍流(南家)の策士である。信西は藤原氏の摂関家(氏の長者・北家)への弱体化政策を進め、院領の拡充をおこなった。このような中で突然、白河天皇は守仁親王に位を譲る。後白河上皇、二条天皇の時代となる。こうしてまた院政特有の現象である院と天皇との対立構造が生まれる。信西は一貫して平氏を優遇することで源氏を押さえる政策を行ってきた。源氏が摂関家と結びつきが強かったからである。平治の乱は天皇親政派、上皇支持派の反信西派などの対応が考えられるが、具体的には武家同士の争いが主となった点で保元の乱との大きな相違を感じさせる。事は、12月9日、平清盛がわずか15名の供を引き連れて突然に熊野詣でを行ったことに発する。これは謀略である。平家の軍事力は京に残したままであったのである。しかし、源義朝はこの謀略に乗った。乗ったのは天皇親政派の藤原経宗、惟方、信頼、成親と源頼政(多田源氏)、源季実(文徳源氏)である。9日夜中、後白河上皇の御所である三条殿に押し寄せた上皇と上皇の母を捉え内裏の東側にある一本御書所に幽閉した。しかし信西は逃れる。逃れた信西はだが山城宇治において発見され、獄門にかけられた。平清盛は帰京し、天皇・上皇を手元に奪還した後、本格的な戦闘に打って出る。清盛は信頼・義朝追討の宣旨を受けて官軍として出立した。12月26日、内裏にたむろする源氏への総攻撃が始まる。この戦闘の最中に六条河原に陣を敷いていた源頼政が裏切りを行う。こうして源氏は敗北する青墓。東国の逃れようとした義朝親子は美濃の青墓で別れ、知多半島に至った義朝は乳母兄弟である鎌田正清の義父・長田忠致の館に逃れる。だが、義朝はこの忠致によって正月3日、湯殿で暗殺される。平氏の世が来る状況で、長田忠致にこれ以外の選択はなかったであろう。討たれる側にもまたそれなりの理由がある。逃亡潜伏の最中に、腰のものも持たずに湯につかる武家がいるだろうか。
 平氏の世がきた。清盛の妻の弟・平時忠が「此一門に非ざる者は、男も女も法師も尼も、人非人たるべし」と語ったことは知られたエピソードである。飯田悠紀子は改めて平氏政権が武家政権であったことを論じる。それは武士団の棟梁であるとともに、国家機構の中で軍事部門の肝要な部分を担っていることが要素であると。平氏政権が打ち出した施策・地頭設置、総官職総下司職(守護・国地頭の先駆的形態)、大番役の差配は国衙機構と深く関連していた。国衙機構への依存度が高いほど、在地の武士にとっては権利の擁護に不満が起こることになる。したがって源氏と平氏との全国的な規模での内乱状態が準備された、と飯田悠紀子は語る。
 内乱を勝利したのは平氏が見逃した源氏嫡流の頼朝、義経、全成らである。平氏はなぜ清和源氏嫡流を族滅しなかったであろうか。頼朝が生き残れたのは、清盛の継母池禅尼が助命を懇願したからである。(後に政権を奪取した頼朝は旧恩に報いるために池家・平頼盛一族のみを赦免し没官した旧領すべてを返還している。)頼朝たちへの扱いは、刃を以て世過ぎする武家にあっては油断以上のものではない。政権を維持するための必要な非情さが欠けたところに、心の豊かさを見いだそうとする美意識は、裏切られる。平氏政権が武家政権である発展の一過程であるかどうかと言う設問に答える力量はないが、人殺し集団である武家の厳しさは保元の乱でみせた源氏一族への粛正以降は見られない。特に平治の乱では清和源氏を族滅する以外に今後の武家の棟梁として維持はなかったのではないか。不思議な事である。嫡子頼朝は、14歳で伊豆に流され蜂起した34歳までの長きにわたって流人生活をおくった。この精神的なタフさ加減は尋常ではない。武家の棟梁としての器を感じさせる。
 西国武士の政権が日本の政権の骨格となったかも知れないもう一つの道を思い描く。それには、平氏は非情さが少なかった。(2005/5/22)
楽書快評
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