書名 安井夫人
著者 森鴎外
初出 大正3年4月 太陽
安井旧宅(清武町) 幕末期の儒者安井息軒は日向国宮崎郡清武村(今の宮崎県清武町)の出身である。伊東家飫肥藩の儒者の息子として育った。清武町の安井息軒の家は小高い丘に建ち、南の国日向の風が吹いていた。今からみればつつましい家である。これは福沢諭吉の生家を訪れても、あるいは森鴎外の生家をみても同じような趣を感じる。
 鴎外は「安井夫人」を次のように書き出す。「『仲平さんはえらくなりなさるだろう』と云う評判と同時に、『仲平さんは不男だ』と云う陰言が、清武一郷に傳へえられてゐる。」幕末を代表する儒者となる若者の誰でもが認める才能は、背負わさせた一つの刻印である。同時に「背の低い、色の黒い、片目の仲平」の容姿がことさらに言い募られるのも生涯の刻印である。仲平は猿と呼ばれ、「猿が本を読むから妙だ。」とさえ云われた。
 期待された仲平は21歳の春に大阪で篠崎小竹の塾に学び、26歳で江戸に出て昌平坂学問所に学ぶ。伊東家飫肥藩で学問所ができることになり、父子とも講壇に立つことになり、帰郷した。そこで、父は息子仲平に嫁を貰うことを考えたが、それはもう一つの刻印から容易ではない。母方の川添家の従妹への嫁とりの使者に仲平の姉・長倉の御新造が立つ。川添の家ではおりしも、快活なお豊さんと岡の小町と呼ばれるお佐代さん、それぞれ20歳と16歳の姉妹が雛祭りの支度をしていた。。長倉の御新造が薦める仲平との縁談にお豊さんの拒否はあまりにも「簡明」であったと鴎外は記す。「わたしは仲平さんはえらい方だと思ってゐますが、御亭主にするのは厭でございます。」暇乞いをして帰る長倉の御新造が2、3丁も来た所で呼び戻される。意外の思いをしながら立ち戻ってみると妹の佐代が姉の縁談を聞いていて、わたしが参ることは出来ますまいかという。長倉の御新造は「それにしても控目で無口なお佐代さんが好くそんな事を母親に云ったものだ。」と思いつつ父と弟仲平にそのことを伝えた。このようないきさつを鴎外は創作して、次の展開を描く。
清武旧宅近景 「婚礼は長倉夫婦の媒酌で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまで只美しいばかりとばかり云われて、人形同様に思われてゐたお佐代さんは、繭を破って出た蛾のように、その控目な、内気な態度を脱却して、多勢の若い書生達の出入する家で、天晴地歩を占めた夫人になりおほせた。10月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故旧が寄り集まつた時には、美しくて、しかもきつぱりとした若夫人の前に、客の頭が自然に下がつた。人に揶揄はれる世間のよめさんとは全く趣を殊にしてゐたのである。」こうして安井夫人の生涯が始まる。お佐代さんは、自分の刻印への対処をしたのであろう。それは人形同様に扱われる自分からの脱皮であったかもしれない。
 夫安井息軒は郷土の期待以上に偉くなり、江戸に上がってついには陪臣から徳川家の直参となる。しかし安井息軒は栄達に興味を抱くこともなく貧しいままに書物の中に埋もれた生涯を送った。もちろん時代は幕末であり、藤田東湖らとも交流し、ペルリ来航に当たっては「攘夷封港論」を草している。それも大儒息軒として対応の一つであろう。必要なら志を述べなくてはならない。だが鴎外の関心は安井息軒の事蹟にあるのではない。
 このような夫安井息軒とともにあった「お佐代さんはどう云う女であつたか。美しい肌に粗服を纏つて、質素な仲平に仕へて一生を終わつた。」「お佐代さんが奢侈を解さぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが出来ない。又物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬ程恬澹であつたとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには尋常ではない望があつて、其望の前には一切の物が塵芥の如く卑しくなつてゐたのであろう。」と鴎外は一気の「解説」を試みる。「お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでゐただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の対象をば、或は何物ともしかと弁識してはゐなかつたのではあるまいか。」
 この「尋常ではない望」「遠い所」をめぐって論者は見解を示す。唐木順三は「鴎外の精神」(筑摩書房)において「護持院ケ原の敵討」「渋江抽斎」とともにこの「安井夫人」を鴎外の最高級の作品と評している。そして、お佐代さんが見ていたのは「寒山拾得」で示された文殊を見ていたのだと推測する。それを鴎外は「書きたくて期未だ到らなかったのではあるまいか」とまで述べている。あるいは「歴史を超えた権威」を身近に見たのだとも云う。これは富や栄達に汲々とする人間の営みとは違うところ生きている仲平とともにあることの生きがいであろうか。
 稲垣達郎は「安井夫人について」等の文章で(「森鴎外」日本文学研究資料叢書 有精堂)で渋江抽斎の五百、「じいさんばあさん」のるん、「護持院ケ原の敵討」のりよとともに「典型的な鴎外好みの女性」と述べている。「安井夫人」が若山甲蔵著の「安井息軒先生」を読んだことから生まれた小説であり、ここから稲垣達郎は若山甲蔵の伝記に基づく歴史的事実と安井夫人のエピソードや感情移入に見られる歴史離れとがこなれないままに、互いにせめぎあっているという小説の構造上の問題に関心が向いてしまっている。吉田精一門下の近代文学研究者であってみれば、論じてみたくなる課題である。わずかに稲垣達郎は「お佐代さんにおいては、遠いところのものは、実はほかならぬ眼前の自己滅却の無償の道そのものである。」と云うのにとどまっている。鴎外の美しいことばそのままに、解釈を加える必要はない。「お佐代さんはどう云う女であつたか。」と問うことは、それぞれの刻印を背負って自分はどういう人生を送ってきたか、送ろうとしているのかを自問することでしかない。
(摩書房鴎外全集によりながら漢字は現代風に変換した。)(2005/7/4)
楽書快評
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