
書名 新版 雑兵たちの戦場
著者 藤木久志
初出 2005年6月25日 朝日選書
雑兵たちの戦場には「中世の傭兵と奴隷狩り」というきわめて刺激的な副題がついている。輪郭のはっきりした切り口が、この本の特徴である。
戦国時代を通して凶作や飢餓に見舞われた農民にとって冬から夏にかけての戦場は食いつなぐ「稼ぎ場」であった、と云う指摘からはじまる。どのように稼ぐのであろうか。侵略して、相手方の村々から強奪するのは食料のみならず牛馬、そして足弱といわれた老人、女、子どもである。中世では人の売買市場ではおよそ2貫文ほどであったという。金のある者は妻子を、身代金を払って買い戻すことも出来る。だが、多くの農民にとっては、奴隷としての一生が始まる。転売されてついにはポルトガル人たちによって彼らの植民地へ奴隷として買われていく数も少なくなかったと述べる。それが、秀吉による国内の平和によって終焉する。国内の戦場という稼ぎ場を失った雑兵たちのエネルギーは、海外に向かう。秀吉の朝鮮出兵である。「秀吉の平和、日本の平和は、戦場のエネルギーを強引に朝鮮の戦場に放出することで、ようやく保障され安定した。」と記している。常陸佐竹家の武士が肥前名護屋城に着いて、その様子を家族にあてた手紙の「高麗のうち2,3城せめ落とし、男女いけ取り、日々参り候よし。」を引用して、海賊商人によって船に積まれ奴隷として生捕りされた朝鮮人の男女が名護屋の町を歩かされている様子を述べている。この朝鮮人奴隷は日本国内のみならず、ポルトガル人に転売された。「その頃、長崎や平戸は世界有数の奴隷市場として知られていた。」戦国時代、国内での人取り・売買の「習俗」がそのまま朝鮮戦場での人取りをおこなわせたのである。
このような人取りの伝統を著者は「将門記」にも見る。平良兼が将門の館を襲ったとき、近くの民家が焼かれ「郡の中の稼稷・人馬ともに損害せられぬ。」将門の妻子も資財も平良兼によって上総に奪い去られた。また、中世社会では重罪犯人の財産・権益は、検断を行う者の手中に帰するという原則(御成敗式目)があったという。「検断を執行する『乱妨衆』が自由にできる人の範囲は、罪を犯した本人ばかりか、妻子から小作人や縁者や、嫁入りの決まった娘までも及んでいたことになる。戦場の人取りの原型は検断の場の『眷属の検断』にあったと断定してもよいであろう。」と解明している。
新潟出身の著者は地元の英雄上杉謙信の軍事にも言及する。上杉謙信は生涯に関東への出兵など国外遠征が20回を超えるという。上杉謙信の出兵パターンは晩秋に出かけて年末に帰る冬型(短期年内型)は川中島の戦いに見られる北信濃への出兵に多い。関東管領職を得た上杉謙信がその名目で行った関東出兵は晩秋に出かけて戦場で年を越し春に帰るタイプ(長期越冬型)であった。農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場であったと、著者は語る。「収穫を終えたばかりの雪のない関東では、かりに補給が途絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎとなった。」1566 永禄9年、関東に出兵し茨城県つくば市にあった小田氏治の城を落とすと人の売り買いの市が上杉謙信の指示で開かれた。「小田開城ヨリ、御意ヲモツテ、春中、人ヲ売買事、廿銭・卅弐程致シ候」(越佐資料)。20文30文の捨て値は中世の人買いの相場の1パーセントであるという。
村々では強制的な徴発・徴兵には身代わりを立てることがしばしばであった、という。傭兵である。すでに古代律令国家の軍隊にあっても9世紀には「兵士料」の給付を狙う傭兵に肩代わりされ始めていた。戦国の世の雑兵たちのなかから、村に帰るよりは、戦場という稼ぎ場を、主人を替えながら渡り歩く部類も生み出した。「足軽や中間クラスの奉公人たちは、大名の家来たちの実に9割以上を占めたから、」「彼らが失業して牢人なる方が、量的にも質的にも、社会にははるかに大きな影響を及ぼしたのであった。」秀吉・家康の平和な社会では、稼ぎ場はどこにいったのであろうか。ひとつは海外である。もうひとつは大阪城、聚楽第をはじめとする巨大普請である。大阪城と大阪の町の建設では5,6万人の人夫を長期に渉って働かせた。天下普請は江戸時代にも続けられる。そして諸国の鉱山開発、さらには原野の開拓、海浜の干拓と大きな稼ぎ場が生み出されていった。
日本の歴史を一国の閉ざされた空間の歴史として把握することの問題は、すでに多くの論者から指摘されてきたところである。ここでも、戦国時代を世界の同時代史との関連において把握する必要が具体的に述べられている。国内、そしてそれに続く朝鮮人の人身売買がポルトガル人、イエズス会の関与の下に行われていたことは本書で述べられてきたところである。1599年 慶長4 7月スペインのマニラ総督テリェは「征韓役に従軍せし日本兵約10万人は、いまや無為にして貧困である。中には黄金にたいする欲望のため、かねがね彼らが垂涎している、本島に侵入せんと企てる者もある。」と本国に報告している。すでに東南アジアに在住する日本人傭兵や奴隷たちが、10万人の侵略軍に呼応して蜂起すれば大変な事態になると危機感を抱いたのである。これに先立ち天正・文禄年間にかけて3度も秀吉はルソンに「入貢」を求める使者を派遣している。16世紀に東南アジアに輸出された日本人は10万人以上とされ、またスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスの植民地競争にとって日本が傭兵や武器・食料の兵站基地をなっていたと著者は述べる。それは1620年 元和6 オランダ・イギリスの連合によって新たに結成された蘭英防禦艦隊が平戸を母港として展開したことで頂点に達したと、見解を示している。そして、徳川幕府が傭兵・武器の輸出禁止、日本近海での海賊行為の禁止を打ち出しやがて鎖国令に発展する政策は、このような西欧列国の争いに巻き込まれることを嫌ったからだと分析する。これに先立ちオランダ・イギリスはスペイン・ポルトガルの拠点マニラ・ゴアの攻撃に日本軍の派遣を求めてきていたと、している。現地ではこの列国の争いに日本人傭兵は重要な役割を担っていたのである。無数の山田長政が跋扈していた。
戦国の終焉、朝鮮出兵の敗北の後、大規模土木工事に収束しなかった戦争エネルギーは傭兵・奴隷そして武器の輸出という形で東南アジアの軍事的な緊張を高め、それを断ち切ることで国内の最終的な平和を保ちえたと結んでいる。
傭兵、奴隷狩り、戦場という稼ぎ場、国内戦争・朝鮮出兵・東南アジアの国際緊張をひとつの文脈でまとめ上げた「雑兵たちの戦場」は刺激的な一冊である。(2005/7・10)
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