
書名 足軽目付犯科帳
著者 高橋義夫
初出 2005年 中公新書
「狼奉行」の著者、高橋義夫が時代劇小説のタネ本を公開した。この「足軽目付犯科帳」(御用帳)である。有力譜代大名である酒井家が治める酒田の町の治安を担う「足軽目付」たちが書き残した書留帳を、抜書きして注釈を入れたのが本書である。もともとは庄内藩酒井家が入る前の時代から土着していた最上家の遺臣が、足軽として登用され、治安から隠密的なことまで幅広く担わされてきた記録である。足軽だから武士とはいえない。微妙な位置で江戸時代を生きた人々の姿を高橋義夫は読み易く新書にまとめた。
酒田は、「本間様にはおよびもないがせめてなりたや殿様に」とまで歌われた本間家をはじめ豪商36人衆が町の自治を担う港町である。港の繁栄は、河村瑞賢が1672 寛文12年に御城米(最上川沿岸の幕府天領の10万石を超える領地からの年貢米)を西廻り廻船で酒田・佐渡・輪島・下関・瀬戸内海・大阪・江戸に到る航路を開いたことから全国有数の米の湊として栄えるようになった。人の出入りが多く、また貧富の差の激しい町である。そこではさまざまな事件が起こる。背景には江戸時代に渉って繰り返された飢饉があった。その多くが泣きたくなるような貧しさからの話である。
高橋義夫はこんなエピソードを抜き書きする。権兵衛は髪結の家に忍び込み、空腹を満たすために冷や飯を食べ、残った飯は握りにして懐にしまった。盗んだものは櫛、古剃刀、砥石、米1升5合である。米は酒屋に売り、その銭で餅と酒を買った。見つかって酒井領内からの追放処分を受けるが、再び舞い戻ってくる。酒田でこそ泥を繰り返すしか生きるすべはなかったのかも知れない。表通りの家の庇に解いた帯をかけ、追放された時に来ていた着物を着替えているところを同心に見つかり、十手で頭を打たれて裸のままに逃げ去った。その後はどうなったのだろうか。記録されているのはそこまでであるという。
貧しいのは町人だけではない。酒田の亀ヶ崎城の城番であった百石どりの小野八郎兵衛の妻の起こした事件である。八郎兵衛の家族は、老母、夫婦、子ども3人に家来がひとりである。その八郎兵衛の妻が3人の子どもを残して出奔した。「八郎兵衛の語るには、勝手不如意のところへもってきて妻は酒好きで、つねづね酒を呑むなと制していたがかくれて呑む様子だった。おそらく内緒で借金をこしらえて、その返済期限が迫ったので出奔したのだろう、その外には心当たりはないとのことだった。」八郎兵衛は登城の差し止めの処分を受けている。子どもたちの悲しげな顔が浮かんでくる。今日でもどこかにあるような性もない出来事である。
酒好きは身を滅ぼす。また別の事件である。酒癖の悪い6人がかかわった暴力事件は、主犯が暇を出されて路頭に迷うことで形がついた。その主犯は紅殻(ベンガラ)で顔を赤く塗り、総身に胡粉を塗りたくり、背中には墨で「酒さへ呑メハ裸テモヨシ」と大書してあったという。また、大酒を飲んでは店々の戸をたたき、大声でわめき、目明しに悪態をついた医師玉庵は、たびたび迷惑をかけてきたとの理由で、手錠をかけられて数日町役人に預けられる。だが、酒をやめることはできなかった。行く末は哀れである。「その後、玉庵は黒森村に往診に行き、好物の酒をふるまわれ、帰りの夜道で狼に食われて死んだという。」
足軽目付達が書き留めた盗難事件で最も被害額が大きかったのは1826 文政9年に最上川の船着場の古口村でおこった6百60両の盗難である。最上商人たちからの集金を終えた次之助が最上川沿岸の大きな船着場であった大石田から船に乗って最上川をくだり、古口村の定宿である四郎兵衛方に泊まった。四郎兵衛に行李ごと預けた千両のなかから6百60両がなくなっていた。調べると四郎兵衛の婿養子が行方をくらましていた。記録ではその婿養子の行方の探索しているところまでで、結末は記されていない。最上川の川の音と驚愕する四郎兵衛の家の人々の声が聞こえてきそうである。
微妙な階層に属しながらも町の治安にかかわって、世過ぎをしてきた足軽目付にも、時代の波は襲ってくる。酒井家は幕末に最後まで江戸幕府に忠誠を尽くした大名家である。庄内藩兵は江戸の町の治安にあたり、御用党事件の処理に当たっては、薩摩藩邸焼き討ちの中心を担った。この焼き討ちには庄内藩兵のひとりとして足軽目付も加わっている。酒井家は戊辰戦争が始まると、薩摩藩の攻撃の対象とされる。清川村での戦闘がすんで、鶴ヶ岡から出張していた足軽目付の渡辺森太郎が遺留品の探索をしているところを、敵と誤認されて足軽に射殺される悲劇も起きる。渡辺は即死、同士打ちに気づいた足軽も腹に刀を突き立てて自殺を図っている。硝煙の臭いが奥州を覆い、敗北の中で酒井家も恭順し、酒田は朝廷の領地となり足軽目付も居場所がなくなる。ある者は帰農し、ある者は明治になって「捕亡」(刑事)となった。
「足軽目付犯科帳」は朝廷側に渡ることなく、足軽目付のそれぞれの家に分散保管された。昨日までの敵に渡ってはまずいことも記されていた。だが、保身だけではなく、そこに少しばかりの反抗のこころをみたいと思う。その一部が明治の末に酒田市で私立図書館を経営していた成沢直太郎によって古道具屋から掘り出され、現在は酒田市の光丘図書館、鶴岡市郷土資料館に収蔵されているという。(2005/7/23)
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