書名 長州奇兵隊
著者 一坂太郎
初出 2002年 中公新書
高杉晋作の姪たちが萩では縁遠かったというのが、書き始めの話である。晋作の縁者として嫌われたのである。「維新直後の、萩の城下には特権を取り上げられた、没落していく士族たちの怨嗟の声が渦巻いていました。山口県は『勝者』の中の『敗者』たちの巣窟と化したのでした。そして彼らの恨みは、維新への道筋をつけ、途上で病死した高杉晋作に集まりました。明日の米を買う悩み、生活の不安を募らせる者たちに、晋作の功績を冷静に評価するなど不可能であったに違いありません。士族たちにとっての晋作は、自分たちの平穏な生活を滅茶苦茶にした、憎んでも余りある存在であったのです。」
このように在地から歴史をみれば、明治維新も単純な話ではなく、維新の動乱の中で消耗品のように死んだり、捨てられたりした多く人たちがいたことを丁寧に掘り出したのが、「長州奇兵隊」である。確かに維新の志士として招魂社に祭られた人も、逆賊として討ち首にされた人も、その人の人生に即してみれば評価は単純ではない。
下関の地元では「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒くれ者の集まりだった。仕方がないから、奇兵隊に入るか、という感じじゃった。やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町の者が噂した」というエピソードを紹介している。このような志願者ばかりではなく、藩命によって徴収された農民もたくさんいた。どちらにしても農家の次男三男は「行き場のない」者であった。故郷に生きて戻って来なかった者も多い。戊辰戦争に従軍した5000人以上の長州藩兵で、亡くなった者は500人を越えるだろうと、推測している。最も後で述べるが戻ってきても職は保証されていなかった。
話を戻そう。禁門の変で中央政界での武力介入に失敗した長州では、俗論党の恭順謝罪が力を増し、正義派の周布政之助は追い詰められて自害する。御前会議で武備恭順を唱えた正義派の井上聞多が帰宅途上に刺客に襲われ瀕死の重症を追う事件も起きた。俗論党が放った刺客は不明であったが、明治の中ごろになって井上聞多の従弟児玉愛次郎の告白によって明らかとなる。刺客は児玉本人と高杉晋作の親戚(妻マサの姉の嫁ぎ先の叔父)周布藤吾が加わっていた。児玉は、明治になると井上の引き立てで出世していたのである。井上はしばらく言葉を失ったと書かれている。長州藩の武士という狭い範囲で演じられたクーデタ(宮廷革命)では、同族知己があい争ったのも不思議ではない。
また、それぞれのグループでも状況の判断の違いから路線の相違が生まれるのも、歴史が繰り返し見てきたことである。禁門の変の後に長州藩では俗論党支配が始まり、奇兵隊など諸隊への解散命令が出ると、奇兵隊第3代総監であった赤禰武人は、俗論党と妥協して乗り切りを図る。それに対して高杉晋作は、遊撃隊、力士隊のわずか80名(奇兵隊は当初には参加していない)で下関の功山寺に決起し、藩会所を襲った。奇兵隊の会計方を担っていた白石正一郎は、彼らを「暴挙党」と記していたそうだ。彼我の力関係を見れば、晋作の行動は暴挙以外のなにものでもありえない。ところが、赤禰武人が不在の間に奇兵隊軍監の山県狂介が晋作に呼応して俗論党の陣営への攻撃を開始し、長州は内乱を仕掛けた晋作たちの手(正義派)に瞬く間に落ちる展開をとげる。まさにターニングポイントであった。その後、裏切り者とされた赤禰武人は正義派の主導することとなった藩によって斬首される。「殺される前に、『真は誠に偽り似、偽りは以って真に似たり』と記していたそうです。不運な最後を象徴する、意味深長な一句です。」と一坂太郎は感想を述べている。非常の時に常識的な見通ししか立てられなかったことを不運といえば、それだけだが、武士 (あるいは武士になろうとした者) にあっては、政治的・軍事的な判断の是非に伴う責任は免れないであろう。
ところで一坂太郎は功山寺挙兵について「公平であるはずの行政までもが、平成のこんにちなお晋作の挙兵を『回天義挙』と呼ぶことに、私は少なからぬ抵抗と疑問を感じています。」と語る。「勝った片方だけを『正義』『義挙』と呼ぶのは、結果論に過ぎないと思うのです。」とも述べている。明治維新の震源地である長州では奇兵隊に見られるように、上級武士と下級武士、農民等の関係は、逆転現象がドラスチックに起きていた。正義、義挙もそれぞれの階層や時期で相違してくる。
長州藩兵として長岡で戦い、また会津で戦った(戊辰戦争を戦った)人たちも、戦争が終われば多くが失職する。諸隊にも解散命令が発せられる。1869 明治2年の暮れから、これに抗議して脱走した2000人規模の兵力で、藩政府に反抗を試みた脱隊兵がいた。これを武力鎮圧したのが木戸孝允であった。
鎮圧された側の首謀者の一人に佐々木祥一郎がいる。山口県厚狭郡楠町万倉地区は寄組国司(くにし)家5600石の給領地であった。この地域には神功皇后の三韓出兵のさいの伝承が伝わっている。この地に生えていた楠で数艘の船を作ったというのだ。その楠の大木は村に覆いかぶさり、昼なお暗く「真暗」が「万倉」となったといわれている。その国司家の家老格で、万倉に土着していたのが佐々木祥一郎であり、禁門の変の責任を取らされて切腹させられた国司信濃のあだを討つために勇略して、第2次長州征伐に抗し、やがて戊辰戦争に従軍していった。だが、終わってみれば国司家も版籍奉還で500石となり、家臣(陪臣)を養うこともできない状況に陥った。佐々木祥一郎は脱隊兵に加わることを選ぶ。それを「陪臣たちは大量の血を流し、維新を成し遂げたにもかかわらず、今度はその維新により、生活を取り上げられてしまったのです。こうして陪臣たちは、脱隊兵を支持する側にまわるのです。」と描いている。佐々木祥一郎は他の首謀者とともに斬首された。ひそかに持ち帰られた祥一
郎の首は一族の墓から離れたところに、しかも異なる方向に向けて墓碑が建てられた。賊徒なった人々は死後も分けられたのである。ふと、秩父事件や竹橋事件の参加者への死後の扱われ方を思い出した。国は非情なものである。
「長州奇兵隊」のよいところは奇兵隊を軍記物に仕立て上げずに、語り継がれた思いをくみ上げたところにある。他方、物足りなさは結果論に過ぎないと述べているだけではすまない、歴史への評価を、それはそれとして片付けているようなところがあるところだ。これは、一坂太郎がそれぞれの立場にそれぞれの「正義」あると、考えているからである。
高杉晋作の姪たちは(晋作の妻の姉の子どもたち)は3人いたそうだが、二人は萩ではなく於福(美祢市)の藤田家に、厚狭(山陽町)の山田家に嫁いでいったとのことである。(2005/7/30)