
書名 神風と悪党の世紀
著者 海津一朗
初出 1995年 講談社現代新書
蒙古襲来から後醍醐天皇の「新儀」にいたる時代の、神国思想の高揚と、細分化された荘園所領の一円支配の回復との二つの事柄を結びつけて論を立てたのが「神風と悪党の世紀」である。寺社という宗教勢力の果たした役割を的確に論じていて、宇佐八幡宮へ関心がある者として示唆を受けた。
蒙古襲来を防いだのは神風である、と中世では信じられた。神風を吹かせたのは日本の神々である、と近代になってもイデオロギー的な注入が行われた。日本の神々は神道だけではなく仏教も含まれる。それぞれの神々の戦いが行われた、と考えられた。異国降伏の祈祷が日本国中の神社仏閣で行われた。「祈祷とは、鎮護国家の仏神を戦場に動員し、異敵や悪魔と戦わせるため」の宗教行事であった。では、中世では寺院や神社はどのような位置にあったのであろうか。海津一朗はいう。「古代や近世・近代とは異なり、中世の寺社勢力は、国家権力の中枢を担う宗教政治家であり、同時に、それぞれが荘園や被官を抱える自立した封建領主であった。国家からどれほどの序列を与えられるか、あるいは寺僧・神人を維持するためにどれだけの荘園や料所を確保できるかが、死活問題だったのである。このような中世寺社の立場が、神々の際限ない神の戦争の競い合いに駆り立てていった。天皇の号令の下、一糸乱れることなく団結して敵国を滅ぼすという気高く麗しい八百万の神々の姿は、これまた後世の神国思想の作った虚像であり、中世の仏神たちとは無縁のものだったのだ。」と喝破する。
神風を吹かした神はどのような現世的な利益を得たのであろうか。現実の戦いで武士たちがその戦績によって恩賞を得たように、寺社も「恩賞」を得たのである。海津一朗は次のようなエピソードを紹介する。1310 延慶3年7月15日、京都の五条坊門西洞院の一角にある「紅梅殿」に、洛北にある北野天満宮の宮仕え法師が押しかけ、紅梅殿跡の住人と大乱闘を演じたのであった。紅梅殿は菅原道真の邸宅が在ったところといわれ、飛び梅伝説にちなんで紅梅殿と通称されていた(陵西児童公園隣地)。天満自在天神は前線基地である大宰府の守護神であり、異国征伐の中核神と見なされていた。中世では天神は軍神であった。突然にも北野社は、この菅原道真の故地である紅梅殿は北野社の領地であると主張し、住民に祭礼の費用を納めるように強要したのであった。外敵への刃は容易に国内の反対者へ向う。北野社は「神の戦争を行うための造営事業に協力しない紅梅殿の者たち。これは、異賊にも等しい国土の怨敵で、朝敵・神敵だ。」と主張した。こうして紅梅殿の住人は悪党とみなされ、伏見上皇の要請によって鎌倉幕府は1312年初頭に逮捕命令を発した。紅梅殿の住人は悪党として流罪か禁獄(御家人預け=武士の下人)に処せられたと推測される。勢力のある寺社は、このように対外戦争の危機感を利用して敵対者を「悪党」として排除していった。寺社造営の流行、殺傷禁断の聖地の広がりは、「地域民衆、とりわけ山野河海を生活の場とする人々の生活基盤を奪うものであった。」彼らは課税に耐えられずに下人となるか悪党となるか、悲惨な運命に投げ出されたのであった。
このような対外危機を利用した国内の再編過程にあって、寺社勢力内部ではどのようなドラマが用意されていたのか。ここで海津一朗は伊勢神宮と宇佐宮とを分析の対象とする。東国にも広がる伊勢神宮領は、実際はたくさんの神人に細分化され、又売却や強奪によって手元から離れていた。1285 弘安8年、1301 正安2年と鎌倉幕府は伊勢神宮神領興行法を発令して徳政をおこなった。つまり、譲与や買取など正当な手続きを経て得た所領であっても没収され、伊勢神宮へ返却されたのであった。これを差配したのが外宮の渡会家であり、細分化された神領の回復が志向された。これは神人にも適用された。内宮の大中臣、荒木田姓神官集団も徳政により領地を失って行った。伊勢国の一円支配がこれによって実現した。このような過程は、九州最大の寺社・荘園領主であった宇佐八幡宮にも見られる。
中世の宇佐宮は、豊前一宮として藤原摂関家(のちに近衛家流)を本家として九州全域に総計2百余所、2万町歩以上の荘園と末寺別宮をもつ巨大な荘園領主であった。ところがここでも、豊前守護少弐(武藤)氏、豊後守護大友氏、宇都宮氏などの鎌倉御家人に渡った領地もかなり多かった。これは源平の合戦に宇佐八幡宮が平家方に組みしたために鎌倉幕府から没収された神領が少なくなかったためである。また、特定の神官一族が役職を世襲したために、役職に伴う所領が宇佐宮から離れて特定の一族に世襲されることとなった。その上、世襲に当たっては一族分割相続の習慣によって細分化が進んでいった。さらに、宇佐宮の本家にあたる近衛家が「花光領」と呼ばれる大領地を一括して伝領していた。
鎌倉幕府は、蒙古襲来時の功労によって九州の寺社を対象にして1284 弘安7年、1312 正和1年と旧所領を回復させる神領興行法を、発令した。これにより、宇佐宮は荘園の一円支配を試み60箇所以上の勢力の回復を遂げた。しかし、鎌倉幕府による徳政は、朝廷の被官である近衛家など貴族たちが領有する宇佐神領には及ばなかった。
宇佐宮の体制内改革派は、鎌倉幕府による徳政の限界を打ち破るために、後醍醐天皇の「新儀」に加担していく。当時、豊前国は北条一門が守護を務める国であったため、大宮司宇佐公右をはじめ慎重な姿勢をとる有力神官が多い中で、庶子で到津(いとうづ)を治めていた元大宮司宇佐公連(きみつら)は後醍醐天皇に味方して倒幕の綸旨に呼応した。「新儀」は鎌倉幕府を打倒しただけではないと海津一朗は述べる。「後醍醐天皇が打倒したのは、鎌倉幕府という武家政権のみではなく、鎌倉の北条得宗家と京都の治天(天皇家家督者)とが協調しつつ国を治める、蒙古襲来以後の国家体制自体であった。」
1333 正慶2年9月、後醍醐天皇は宇佐公連を再び大宮司に任命し、3本の柱からなる神領興行綸旨を発した。ひとつは、本家を廃止する。次に京家・武家に押領されたすべての神領を社家に返却する。そして公連に社家改革の全権を委ねる。これによって一円支配の道が開けたのである。本家近衛家からの支配を脱し、宇佐宮改革派が自立的な運営を始めることが出来た。
さらに、後醍醐天皇は日本仏神の全ての「統括者」になるという発想もあり、これを進めたのが西大寺律宗グループであった。後醍醐天皇のブレーンの一人にはこのグループの文観がいた。宇佐公連たち改革派はこの西大寺律宗に結びつく。神領の中から13箇所を大楽寺に寄進した。そして後醍醐天皇の御願寺とする。大楽寺開山は西大寺僧である道密光仙であった。こうして到津大宮司公連派神官集団と西大寺律宗勢力による宇佐宮改革=荘園の一円支配が、後醍醐天皇の権威に裏付けられた大楽寺を「総本部」として推進された。
このように建武の新政は復古ではなく、「危機にあった荘園制の再建を全面的に助成していたのである。」それは「各々が荘園領主のもとで一円所領を一括支配する新たな秩序を模索」するものであり、限界としては「改革が天皇個人の能力に委ねられ執行機関が充分に機能せず、職の再配分や荘園制の再建が円滑に進まなかった」ことがあげられている。その後時代は南北朝を迎える。「天皇が複数擁立されたことにより、日本国には複数の時間が並立した。天皇は、元号制定という国土の時間を管理する権限を持っていたからである。」「各地に私年号や不改正元号(改元を無視して旧元号を使用するもの)が出現した。こうして、天皇は時間の管理者としての権威を喪失したのである。」「神国日本は、後醍醐天皇が仏神の力を王権に結合させて滅びたために、それと運命を共にした。成人した三代将軍足利義満によって室町幕府の支配秩序は安定し、朝廷や寺社勢力は武家に依存しつつ荘園制の再建を軌道に乗せていた。」と結んでいる。海津一朗は、職の世襲による所領の細分化により「共倒れ」しかねない状況に追い込まれた中世荘園制の支配者が外圧(蒙古襲来)への危機感を利用して、一円支配による再建を目指した動きを、寺社勢力を中心に分析した。「神風」「悪党」や「徳政」への新たな視点を中世史に持ち込んだと言える、と思う。(2005/8/5)
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