楽書快評
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0089
書名 日本庶民生活誌
著者 宮本常一
初出 1981年 中公新書
 「絵巻物に見る」と表題に付けられているように、絵巻物に見られる庶民・武士・貴族の生活風景を絵解きしたものである。これを見ると昭和20年代までは、ほぼ変わらぬ生活を長年おくってきたことが分かる。
 一番興味深く読んだのは、南方からの生活様式があらわれている点を、宮本常一が具体的に示している事柄である。それは貴族の生活スタイルに特に強く見られるという。例えば寝殿造。「貴族文化というのは何だろうか。高床の家に住み、戸障子というものがほとんどなく、間仕切も御簾・几帳・襖・屏風などを用い、冬など冷たい風がすうすうと吹きぬけていく邸。その寒さを防ぐための厚着、それも広袖寛衣のおよそだぶだぶしたもの。そして、それらはまったく生産労働を伴わない生活を象徴している。」これは南方の生活様式を寒い日本に持ち込んだための、矛盾のスタイルだという。
 「古墳時代から高床のある家が出現するが、それはどうも在来の文化の発展したものではなく、別の文化が日本列島にはいってきたものである、それは稲の生産技術と宗教儀礼を持ち、後には祭祀を通じて支配者になった人びとであり、高床住居で生活したと考える。そうした高床式文化をもつ者から見れば在来の居住者は土蜘蛛に見えたのであろう。同時に、日本の政府自体も南朝へのつながりを強くしてくる。『宋書』の『倭国伝』がこれを物語る。倭について中国の表現の仕方は『後漢書』では『東夷伝倭』であり、『魏志』では『東夷伝倭人』と表現されていたものが、『宋書』では『夷蛮伝倭国』となっている。そして、宋は南朝で南京に都した。どうして南朝へつながりをもつようになってきたのか。おそらく稲作文化を持った民族が、中国南部の海岸地方から朝鮮半島南部を経由して西日本に渡来し、稲作に伴う儀礼の普及を中心に、やがて祭祀王朝が日本列島を統一して成立してきたのが南宋のころではなかったかと思う。倭国から讃が入貢したのは永初2年(421)で、讃は仁徳天皇または履中天皇ではないかという。」 
 3世紀の魚拳が記した「魏略」の逸文にある「倭人自ら太伯の後と謂う」に見える呉の太伯の子孫が天つ神・皇孫であるという伝説にと結びつく。だが、この王朝南方伝来説はきびしい検証が必要だと思う。話はそれるが、平安時代は、その後の時代に比べれば世界的に温暖な気候であった。高床式の上に立った開放的な貴族の住居であっても厳寒でなければ暮らすことは可能であったと思う。ところがだんだんと寒い気候が世界を覆う。それでも高温多湿のモンスーン気候には開放性は必須であり、木と紙とで作られた家は朝鮮半島にあるオンドルなどを発展させなかった。
 住の次は衣である。「伴大納言絵詞」の人びとの足もとは裸足である。宮本常一はそこから次のように述べる。「今はもう裸足はほとんど見かけなくなったが、昭和20年以前には裸足で歩いている者はきわめて多かった。バラスも敷かず小石もない道ならば、裸足で歩くことは気持ちのよかったもので、一般民衆は裸足の生活であり、家へ入って座敷にあがるときも、べつに足を洗わぬ者が多かった。一般民数の家には畳などなかったのであるから、座敷も板敷か筵や薦の敷いてある程度で、今日の生活とはおよそ異なっていた。」
 昭和になっても裸足の者が多かったという宮本常一は農村風景を述べているのであろうか。裸足だけではない。着物のしたに下履きを付けるようになったのは13世紀からではないかと推測している。褌は中国や日本のみならず東アジアに広く分布している。そして日本人は裸を好んだと、記している。「日本の民衆は古くは裸を好んだ。そして、それは明治30年ごろまで続いた。そのころまでの外国人の日本に関する見聞記を読むと、多くそのことに触れている。大人も裸のまま屋外で行動することが多かったし、夜間就寝の折もまっ裸のままで布団にはいって寝る習俗は、ほぼ全国に及んでいたのではないかと思う。この裸体習俗が禁止されるようになったのは幕末の開国以来のことである。」特に明治30年代になって政府からのきびしい禁止政策によって消えていったという。裸で裸足を好む日本人の習俗は南方からの影響であろうか。
 もちろん子どもも裸である。「子供を裸のままで育てる風習は昭和20年以前には僻地至るところで見かけたもので、それは古くからの習俗であった。子どもは裸のまま背負わされて育った。「小さい子供を背負う場合は裸のままを素肌に背負い、その上に着物を着、小袿(こうちき)を着たもののようである。子供は幼少の折は裸でいることが多く、着物を着る場合にも、肌には褌やパンツのようなものは何も着けなかったようである。」と言及している。子どもたちは大変愛されて育てられた。1878年 明治10年に日本に来た米国のESモースの「日本その日その日」の記述を宮本常一は引用する。日本は子どもたちの天国だというのだ。裸の子どもこそ見なくなったが、子どもに甘いのは今でも続く習俗である。「子供を背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子供が6人いれば5人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。」「いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供達の天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少く、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。赤坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人々なりの背に乗っている。刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、五月蠅く愚図愚図いわれることもない。」なるほど、子供を背負う姿はめっきり減ったが、子どもたちの天国であることは変わらないと、と感じる。それは否定されるべきものではない。これまでもそうしてきたのには理由があるのだろうから。
 最初の貴族の生活に戻ろう。庶民と違って貴族は労働に従事しない代わりに、宮廷などでの年中行事に仕えた。「目に見えぬ神仏の意志によってわれわれの生活が左右されているとするならば、神仏の加護を得なければ、幸福な生活は得られない。」生産に従事する庶民はケガレが多く、神仏に祈る能力が乏しいと感じられていた。マツリゴトをするには直接生産に従事しない人々が必要と思われていたのだと、宮本常一は考えている。それがいわば毎日をハレの生活をする貴族の役割と任じ、庶民と貴族とは互いに干渉しないで生きていたのだと説いている。相互不干渉とは、いわば別の種族として生きたということにも通じる。南方からの影響とともに、相互不干渉の中で明るく庶民は生きたいたのだと、する宮本常一の視点を是非注目したい。宮本常一はこの本を「絵巻物を見ていてしみじみ考えさせられるのは民衆の明るさである。」と書き始めているのだから。「明るさ」は特に強調したかったことであろう。土蜘蛛の末裔としての庶民は裸の明るさしか持ちようがない、のか。(2005/8/15)