書名 高杉晋作
著者 大岡昇平
初出 1965年 別冊文藝春秋
高杉晋作像 大岡昇平の歴史の一つひとつを押さえる目は秀逸である。だが、歴史全体を押さえる段になると、時代時代の歴史認識にとらわれてしまっている。
 2度目の脱藩を問われて高杉晋作は1864年 元治元 3月、野山の獄につながれる。つながれている間に7月には久坂玄瑞をはじめとする禁門の変がおこり、敗北した長州への征討の命が下る。同時に四国連合艦隊に馬関が攻め込まれ、砲台をたやすく占拠される事態に陥った。8月になると野山の獄につながれていた高杉晋作は解放され、家老宍戸備前の養子に仕立て上げられて英旗艦ユーリアラス号での、講和を担うこととなった。一時は夷荻に降を乞う者として刺客に狙われることもあったが講和は成立した。中身は馬関での薪炭船中入用品の売渡など実質的な開港であった。「連合軍は砲台を破壊しただけで、内陸には進撃しなかった。その目的は長州藩の破摧ではなく、馬関を開港せしめることにあったからである。以来下関は実質的に開港場となり、諸物資が密貿易される。長州はますます富強となり、高杉のいわゆる『大割拠』に理想に近づく。三年後の幕府の第2次征長の目的の一つは馬関を占領して、貿易の利を収めることにあった。」と大岡昇平は歴史の一コマをこのように解く。第2次征長の目的の一つが貿易の利を収めることにあったかどうか、根拠が示されていないのでこれ以上は明らかではない。ただ、大割拠という視点は分権自治であり、好感が持てる。日本的な封建制度は脱却が図られなければならなかっただろうが、それは明治維新がおこなったような帝国主義的な仕方ではない方向もあったと考えられる。
国司信濃家墓 1864年 元治元の第1次征長は戦わず藩主父子が恭順。国司信濃をはじめとする三家老の斬首を経て俗論党の支配が長州藩では続く。高杉晋作は逃れて筑前の野村望東庵に匿われる。再び馬関に戻った高杉晋作に力士隊総監伊藤俊輔と遊撃隊総監石川小五郎が協力、わずか4,50人の2隊のみで、「12月15日深夜、雪を踏んで功山寺に赴き、蟄居中の三条実美ら五卿に暇を乞うた。紺糸縅の小具足に身を固め、桃形の兜を首に懸けた姿である。大杯の冷酒を飲み干し、『これより長州男児の肝っ玉を御覧に入れ申す』と叫んで馬上の人となった。」
 様になっているではないか。但し戦国時代に戻ったような景色である。
太田絵堂の戦い地図 これに呼応した山県狂介が率いる奇兵隊が1865年 慶応元 正月7日未明、絵堂に集結する藩兵部隊に突入、不意を突かれた藩兵は潰走。伊佐の陣を払って、秋吉台を迂回し厚東川流域に進出、四方から絵堂駅に突入した。「この辺は勢衰えた中国山脈が小台地に分割されつつ、朝鮮海峡に没するところで、地形錯綜している。」と大岡昇平は地形を説明している。28日には正義党の軍艦癸亥丸が萩湾口に侵入、空砲を放って威嚇している。30日には諸隊が萩に向かった進撃、このような状況を見て藩主は俗論党罷免を以って収拾を図る。2月14日、野山の獄につながていた正義党を釈放、椋梨藤太らは石見に逃れるが、津和野藩に捕らえられて、萩に送還され、1866年 慶応2 第2次征長への抗戦が決まると処断される。このように詳しく推移を追いかけた後、大岡昇平は次のように冷静に分析をする。
 「結局高杉晋作の事蹟の中で一番意義のあったのは、馬関挙兵である。俗論党の勢力が強く、人みなが時期尚早として調和論を唱えていた時、彼だけが、会所占領という小蜂起が転換を生み出し得ることを見抜いたのであった。
 ただしその後の経過をよく見れば、軍事的成功によって内乱を有利に収束したのは、慎重な山県狂介であったことがわかる。高杉は『譜代の臣』の選良意識から、英雄的猪突を行って、きっかけを作っただけである。無論これは天才的な行動であるが、後年山県らがその功の尽くが高杉に帰せられるのに不満を抱いた気持ちもわからぬことはない。」
 ほぼ、大岡昇平の語るとおりであろう。だが、最初に旗を揚げた者が、その名誉を担うのは当然のような気がする。日本の歴史では旗を揚げる機会を逃すことが多かったのではないか。現在でもそのような気がする。「一番意義のあったのは、馬関挙兵である。」ことに同意したい。状況が動き出してしまえば、軍事も政治体制も作り替える人材は思いの外多いのである。それは古来中国・朝鮮の先進的な制度を摂取するのに敏であった体質であり、西欧諸国の制度を輸入するのにも躊躇することはなかった。ヒントを得て、地元になじませる手法はお手のものである。
 このように丁寧に小説の筆を運んできた大岡昇平は末尾に突然紋切り型の総括をはじめる。
 「結局高杉の行動の原動力は長州の経済力軍事力を背景としたブルジョワ的投機性にあったといえよう。譜代の臣の毛並みの良さに支えられた果敢さ、情勢判断の的確さ、変わり身の早さによって、志士のダイナミズムのシンボルとなった。そこには上海の見聞から得た亡国の危機感があり、その裏返しされたものとして、『防長の腹を五大洲に突き出す』という英雄的自己肥大化があった。高杉はそれをしばしば分裂した言動によって表現した。」
 ブルジョワ的投機性とはいったい何であろうか。1965年頃には、このような意味不明な「ブルジョワ」「投機性」とが「性」で結びついても、不思議に感じなかったのだろうか。正義党にも毛利家譜代の中・高禄を貰っていた武士が加わっていた。だが彼らの誰が高杉晋作のように功山寺蜂起という「暴挙」をやってのけたのだろうか。「ブルジョワ的投機性」とかいう原動を発揮したであろうか。紋切り型の総括をしないではいられない大岡昇平には残念な思いがする。(2005/8/27)
楽書快評
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